北京での第二の人生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:43 UTC 版)
1960年(昭和35年)に溥傑が釈放され、翌年、浩は中国に帰国して溥傑と15年ぶりに再会した。この後、浩は溥傑とともに北京に居住した。北京に移住後、文化大革命(文革)が始まり、1966年(昭和41年)には二人の自宅が紅衛兵に襲われた。文革が下火になって以降、浩は1974年(昭和49年)、1980年(昭和55年)、1982年(昭和57年)、1983年(昭和58年)、1984年(昭和59年)の計5回、日本に里帰りしている。 1987年(昭和62年)6月20日、北京で死去した。1988年(昭和63年)、浩の遺骨は、山口県下関市の中山神社(祭神は浩の曾祖父中山忠光)の境内に建立された摂社愛新覚羅社に、慧生の遺骨とともに納骨された。 溥傑が死去した1994年(平成6年)、浩と慧生の遺骨は半分に分けられ、溥傑の遺骨の半分とともに愛新覚羅社に納骨された。浩と慧生の残る半分の遺骨は、溥傑の遺骨の半分とともに、中国妙峰山上空より散骨された。 次女の嫮生は日本に留まって日本人(母の実家嵯峨家と親交の深い福永家の次男)と結婚、5人の子をもうけ、2020年(令和2年)現在、兵庫県西宮市に在住する。2013年には父母や自分たち姉妹に関する資料を関西学院大学に寄贈している。
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