北アメリカ大陸のイギリス領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 01:26 UTC 版)
「イギリスによるアメリカ大陸の植民地化」の記事における「北アメリカ大陸のイギリス領」の解説
「13植民地」も参照 グレートブリテン王国は1713年にフランス領アカディアを獲得し、続いて1763年にはカナダのヌーベルフランスを奪った。この年にはスペイン領フロリダも手に入れた。ヌーベルフランスだった領地は一旦ケベック植民地と改名された後さらに2つに分けられ、以前から植民が進んでいた地域をローワー・カナダ(現在のケベック州)、新しく植民を始めた地域をアッパー・カナダとした(今日のオンタリオ州)。 北方では王国の勅許会社であるハドソン湾会社がアメリカ・インディアンと毛皮の交易を行い、フランス人毛皮交易業者と競い合った。やがてこの会社が、ルパートランドと呼ばれたハドソン湾に注ぐ河川流域の全体を支配するようになる。1818年に行われたイギリス・アメリカ協議(アングロ=アメリカン会議)によって、北緯49度線より南に延びていたルパートランドの一部がアメリカ合衆国の領土となった。 1775年には、アメリカの13植民地が主に代表権、及び地域に課される法と税金の問題に関して反乱を起こして戦争となり(アメリカ独立戦争)、これが正式なアメリカ合衆国の成立に繋がった。1776年にはアメリカ独立宣言が発表され、その後1783年9月3日のパリ条約調印によって、アメリカ合衆国は国際的に認知されるに至った。 グレートブリテン王国は、北アメリカの西海岸に於いても植民地化を進めた。これはハドソン湾会社にロッキー山脈以西、コロンビア地区とニューカレドニア地区でも毛皮交易の免許を与えるという間接的な形をとって行われたものである。但しロッキー山脈の西から太平洋までの土地は、1818年のイギリス・アメリカ協議(アングロ=アメリカン会議)のもと、暫くはオレゴン・カントリーとして両国が共同統治していたが、1846年に結ばれたオレゴン条約により、バンクーバー島を除いてはロッキー山脈より西側でも、北緯49度線が両国の国境と定められることになった(オレゴン境界紛争を参照)。また、1849年に設立したバンクーバー島植民地と1858年に設立したブリティッシュコロンビア植民地は、1866年に統合しブリティッシュコロンビア王室領植民地となるが、1871年にはカナダ連邦に加盟した。なおブリティッシュコロンビア植民地は、1863年にスティキーン領土を併合しており、更にカナダ連邦に加盟する際には元ルパートランドの一部であったピース川地域も併合した。 1867年、ニューブランズウィック、ノバスコシアおよびカナダ(現在のオンタリオ州とケベック州の南部)の各植民地が統合して、イギリス帝国に所属し、カナダと呼ばれる自治領を形成した。ケベック(現在のオンタリオ州南部に入っている部分を含む)とノバスコシア(現在のニューブランズウィックとプリンスエドワードアイランドを含む)はフランスからイギリスに割譲されていた。その後の6年間のうちに、プリンスエドワードアイランドとブリティッシュコロンビア各植民地がカナダに加盟し、1949年にはニューファンドランドも加盟した。ルパートランドと北西部領土が1870年にカナダに割譲された。この地域は現在、マニトバ州(カナダ政府とメティス暫定政府が1870年に協議した後に加盟した)、サスカチュワン州およびアルバータ州(共に1905年設立)、さらにはノースウエスト準州、ユーコン準州(クロンダイク・ゴールドラッシュ開始後の1898年創設)、ヌナブト準州(1999年設立)となっている。
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