劇場創建
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上述のように、フェニーチェ劇場は火災で焼失したサン・ベネデット劇場の後継(の一つ)として創建された。劇場設計案は1789年11月1日に公示された建築設計競技(コンペティション)によって公募された。劇場へのアクセスがゴンドラ(富裕層)あるいは徒歩に限られるヴェネツィアの特殊事情を反映して、コンペには「主入口はメヌオ運河に面すること、そして大型ゴンドラの利用を勘案しその幅は最低6メートル確保すること」等の微細にわたる条件が付されていた。また、コーヒー等の嗜好品販売にあてるスペースの確保、火災予防・延焼防止設備への考慮なども条件に記載されている。 コンペにはイタリア各地(もっとも当時のイタリアは統一国家ではない)から多くの建築家が参加、記録によれば28の設計案が競合、自案を宣伝し他案を中傷するパンフレットが飛び交うなど白熱したものだったという。最終的に審査委員会は当初一般に下馬評の高かったピエトロ・ビアンキの案を斥けジャンアントニオ・セルヴァの案を勝者としたが、これはヴェネツィア大衆の轟々たる非難の対象となった。セルヴァを揶揄する雑言やソネット(詩)なども記録に残っている。例えばセルヴァは劇場のファサードに"SOCIETAS"(共同で、といった意味)という銘を刻んだが、これを反対派は"Sine Ordine Cum Irregularitate Erexit Theatrum Antonius Selva"(方法も秩序もないまま、アントニウス・セルヴァがこの劇場を建てた)と読み替えて皮肉った。往時における歌劇場建設がいかに関心の高いイヴェントであったかを窺い知れて興味深い。 客席規模約1500をもつこの新劇場は1792年4月には完成、5月16日にパイジエッロのオペラI giuochi d'Agrigentoにより開場した。画家フランチェスコ・フォンタネージのデザインによる美しい内装と、「ロイヤル・ボックス」的なものを廃し、174全てのボックス席がほぼ同形同大に作られているという構造が特徴的であった。この「平等主義」的アプローチに、当時のフランス革命の影響を見る向きもある。もっともヴェネツィアがナポレオン支配下に陥ちた1808年には、セルヴァの手によりロイヤル・ボックスが仮増設された(この時同様にナポレオンを王に戴いていたミラノでもスカラ座がナポレオンの嗜好に合わせる形で改修されている)。 フェニーチェ劇場は当初からヴェネツィア、あるいは広くヨーロッパにとっての中心的歌劇場としての地位を確立した。ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティの新作初演を含む数多くのオペラが上演された。
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劇場創建
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「レージョ劇場 (トリノ)」の記事における「劇場創建」の解説
レージョ劇場は18世紀、サルデーニャ王国の中心都市として繁栄しはじめたトリノ市街中心部の新しい劇場として、建築家ベネデット・アルフィエリの設計によって1730年建設が開始され、最終的には席数2,500の典型的な馬蹄形オペラ劇場として完成した。杮落としは1740年12月26日、ナポリの作曲家フランチェスコ・フェオの『アルサーチェ』(Arsace)であった。
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