初期の運行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/23 06:50 UTC 版)
「シカゴ・オーロラ・アンド・エルジン鉄道」の記事における「初期の運行」の解説
発電システムの不具合、ほぼ訓練されていない運転手たち、そして稼働できる車両が6両のみであるのにもかかわらず、シカゴ・オーロラ・アンド・エルジン鉄道のオーロラ支線は1902年8月25日に開業した。運賃は片道25セント、往復で45セントだった。ループ方面へ向かう乗客はもう5セント支払い52番通りでメトロポリタン・ウェスト・サイド高架鉄道に乗り換えなければならなかった。運行は朝5時33分に始まり夜23時33分に終了し、電車は30分毎に走っていた。始発駅は52番通りに開業し、オースティン通り(シカゴ)、オークパーク、ハーレム通り(フォレスト・パーク)、メイウッドは、ベルウッド、ウルフ・ロード(ヒルサイド)、セッカー・ロード( ヴィラ・パーク)、サウス・エルムハースト、ロンバード、グレンエリン、大学通り(ウィートン)、ウィートン、ゲーリー・ロード(ウィートン)、シカゴ・ゴルフ・グラウンド、ウォーレンヴィル、フェリー・ロード(ウォーレンヴィル)、エオラ・ジャンクション(オーロラ)、オーロラの駅が開業した。オーロラからシカゴは片道75分かかった。ナイルズ車両会社からの最後の4両が9月5日に到着し7日後に運行開始した。当初駅に掲示された時刻表にはバタヴィア支線の運行も記載されていた。しかし、実際に運行が開始されたのは1902年の9月の最後の週であった。バタビア支線はエオラ・ジャンクションでオーロラ支線と合流していた。開業した後もバタヴィア支線の利用客は少なく、主に鉄道会社の関係者がバタヴィアの発電所に向かうのに便利な交通手段として用いられていた。 フォックスバレーの都市や町に対して会社は利用促進のパンフレットを発行した。会社はこれらのパンフレットをオーロラまで蒸気鉄道に乗ってから電鉄線へ乗り換えたいと考えている西オーロラ住民にも送った。それらパンフレットは会社を「世界で最もすばらしい鉄道」と自慢していた。その年の年末に、会社は月当たりの収入が16500ドルを超えることを経験した。また、近隣を走るシカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道のオーロラとシカゴの間の利用客が大きく減少した。 1902年12月にスティーブンソン製の20両が到着した。15両はモータを搭載し(30から58の偶数の番号)5両は搭載されなかった(101から109の奇数)。後者の5両は付随車として使うことのみが想定されていた。付随車は乗客の量によりウィートンでよく連結されたり切り離されたりした。スティーブン製の車両はナイルズ製の車両とすべての面でほぼ同じであった。これらの新車によってオーロラからシカゴまでの所要時間は1時間に短縮された。新車たちは会社により早い速度での運航を可能にした。ある列車は52番通りからオーロラまで平均 65マイル毎時 (105 km/h)で走行した。 1903年5月26日にエルジンへの運行を開始した。ウィートンで本線から分岐した17.5マイル (28.2 km)の支線で、シカゴからのフォックスバレー市内に65分で電車が到達できるようになった。開業したときに52番通りから15分ごとにオーロラゆきとエルジンゆきの電車が交互に出発するダイヤへ変更された。この時点ではすべての列車は普通列車で各駅に停車していた。会社はメンドータへの延伸を一時考えたが金融面のリスクを考え価値がないと判断した。主に列車は旅客を運んでいたが早朝は軽貨物も運搬していた。その中の著名なものは、1903年10月にシカゴ・レコード・ヘラルドと合意した同社の新聞紙を沿線の郊外への配送することである。 1910年には、会社はウィートンの近くからジェノバとセントチャールズへ視線を開業させた。都市間の線路は集電方式に第三軌条方式を用いているが、これは他のインターアーバンと比べると珍しい。都市の高架鉄道や地下鉄では第三軌条が標準となっているのにもかかわらず、多くのインターアーバン鉄道はトロリーポールを架線からの集電に用いていた。会社はいくつかの併用軌道がある箇所など必要がある場所でのみ架線を用いた。 当初はシカゴ側の終着駅は52番通り駅でメトロポリタン・ウェスト・サイド高架鉄道のガーフィルドパーク高架鉄道線と共有しており乗客はここでインターアーバンと高架鉄道とを乗り換えていた。 1905年4月11日にはインターアーバンは高架鉄道の線路への乗り入れを開始し直接シカゴの中心部へ乗り入れるようになった。同時にガーフィールドパーク線は52番通り駅の西へ延伸され、フォレスト・パークのデスプレーンズまでのインターアーバンの地上線に乗り入れ同区間の普通列車を置き換えた。インターアーバンの電車はシカゴ高架鉄道のループに隣接する頭端式のウェルズ・ストリート・ターミナルを終点とした。インターアーバンの電車は「L」の線路を シカゴ・ラピッド・トランジット(CRT)が所有している時も、シカゴ交通局 (CTA) の時期になっても使用していた。
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