初期の連合軍とドイツ軍の動き――ロードス島の陥落
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「ドデカネス諸島戦役」の記事における「初期の連合軍とドイツ軍の動き――ロードス島の陥落」の解説
イタリアの降伏および連合軍との休戦が知らされると、ドデカネス諸島駐留イタリア軍兵士の大半は、連合軍と共に戦うかイタリア本国へ戻ることを望んだ。しかし、主にギリシア本土に展開していたドイツ軍はイタリアの降伏を予期しており、多数の島々を占領するためにアレクサンダー・レーア上級大将 (Alexander Löhr) 指揮下のE軍集団の部隊を急行させた。 ドデカネス諸島において最も有力な部隊は、ウルリッヒ・クレーマン(英語版)中将 (Ulrich Kleemann) 指揮下の突撃師団「ロードス」 (Sturm-Division Rhodos) の7,500名であった。同師団は1943年夏、ロードス島において編成されたが、同島はドデカネス諸島の行政の中心であると同時に、3ヵ所の軍用飛行場を擁しており、連合国とドイツどちらにとっても主要な軍事目標であった。 9月8日、カステロリゾ島のイタリア軍守備隊はイギリス軍の分遣隊に降伏し、数日のうちに連合軍の艦艇によって増援が送りこまれた。翌9日、ジェリコー卿(英語版) (George Jellicoe) を長とするイギリスの使節団が、イタリアの指揮官イニーゴ・カンピオーニ (Inigo Campioni) に対して連合国側に加わるよう説得するために、落下傘でロードス島に降下した。しかし、ドイツ軍はすばやい行動によって先手を取った。同日、イタリア側の決定を待たずに、クレーマンは40,000名からなるイタリア軍に対し攻撃を開始し、11日までに降伏に追い込んだ。 この失敗にもかかわらず、イギリスは他の島、特にコス島、サモス島、レロス島の3島の攻略を推し進めた。それらの島々を拠点に、イギリスはイタリアの協力を得て、最終的にロードス島に対する効果的な攻撃が可能になると期待していたからである。9月10日から17日の間に、イギリス軍第234歩兵旅団(英語版)、特殊舟艇部隊(SBS, Special Boat Service)、長距離砂漠挺身隊(LRDG, Long Range Desert Group)がイギリス海軍やギリシャ海軍支援のもと海から攻撃を行い、また第11パラシュート大隊(英語版)やギリシャ軍の特殊部隊である神聖隊(英語版)がイギリス空軍や南アフリカ空軍支援のもとで空から攻撃を行った結果、コス島、カリムノス島、サモス島、レロス島、シミ島、アスティパレア島を占領した。 これに対してドイツ軍もすぐに行動を開始し、9月19日までにカルパトス島、カソス島およびイタリア占領下にあったスポラデス諸島、キクラデス諸島の島々を占領した。9月23日には、クレタ島駐留の第22歩兵師団(英語版)師団長フリードリッヒ=ヴィルヘルム・ミュラー中将 (Friedrich-Wilhelm Müller) に対して、コス島とレロス島の占領が命令された。
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