初期の歴史と前身
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 22:57 UTC 版)
「メモリアル (人権団体)」の記事における「初期の歴史と前身」の解説
メモリアルの設立は、ソ連の改革運動であるペレストロイカで明らかになったソ連の過去の中でも特にソ連周辺の特定の「ホットスポット」における現在の人権に対する懸念への対応が始まりだった。後にメモリアルが追求する目標のうち初期に出された声明には、ブレジネフ時代の反体制派がおこなったアレクサンドル・ソルジェニーツィンのモスクワ追放後の1974年2月13日の『モスクワ・アピール』でされたものもある。 この声明の中でメモリアルは、『収容所群島』の出版や過去に関する全ての秘密警察の公文書の公開、ソ連秘密警察の犯罪を検証するための国際法廷の開催を要求した。 1980年代後半になるとメモリアルの目標のいくつかは実現可能となり、レフ・ポノマリョフ、ユーリ・サモドゥロフ、ヴャチェスラフ・イグルノフ、ドミトリー・レオノフ、アルセニー・ロギンスキーなどの活動家が、ヨシフ・スターリンの圧政による犠牲者を記念する複合施設を提案するようになった。彼らの構想には記念碑や博物館、資料館、図書館が含まれていた。そして、「全国非公式運動」が始まった。メモリアルは1988年のソ連邦共産党第19回全連邦協議会に請願書を提出し、スターリン時代の人格崇拝による政治弾圧の犠牲者のための記念碑を建てるという政治局の提案を支持した。1961年の第22回ソ連共産党大会でも同様の決定はなされていたが、長年無視されていた。 メモリアルの発展の歴史の中で重要な出来事は、1988年10月29日と30日に開催されたモスクワ会議である。官僚と穏健派の失敗で延期されたモスクワ会議には57の町や都市から338人の代表が集まった。11月16日付の政治局への報告で、KGBの新長官ウラジミール・クリュチコフは、代表者の66%がモスクワとモスクワ地方から来たと観察している。クリュチコフの主な関心は、2日間のイベントで元反体制派や若い活動家がおこなった「挑発的な発言」にあった。会議には創造的職業者による組合(建築家、デザイナー、芸術家、映画製作者)の秘書が評議員候補として出席していた。出席者の中にはモスクワ人民戦線や新しく設立された民主連合、グラスノスチ、エクスプレス・クロニクルといった無検閲の定期刊行物などのより急進的な声をあげる者もあった。この会議では、反体制派のラリーサ・ボゴラズとエレナ・ボナー、そしてソロフキ強制収容所の初期の収容者であった80代の作家オレグ・ヴォルコフが演説をおこなった。クリュチコフは政治局への報告の中で、後にメモリアル・インターナショナル会長(1998-2017)となるアルセニー・ロギンスキーを特に発言力のある人物として取り上げている。メモリアルはソ連末期のヘルシンキ・グループの後継者となるべきであるとロギンスキーは述べ、見習うべきモデルとして『時事通信クロニクル』(1968-1982)とその編纂者たちの名前を挙げている。 翌年の1989年1月26日~28日にモスクワ航空研究所で開催された会議では、「歴史と教育」のための協会としてメモリアルが設立された。2年後には「メモリアル」公民権擁護センターも設立された。モスクワの街頭で行われた無作為の投票では、市民がメモリアル協会の評議員候補にふさわしいと思う人物を多数挙げ、その中にはアレクサンドル・ソルジェニーツィンも名を連ねていた。しかしソルジェニーツィンは公の場では海外からの支援はほとんどできないと言い、また「弾圧的措置は1917年の十月革命から始まっているので、プロジェクトの範囲をスターリン時代に限定するべきではない」とアンドレイ・サハロフに私的に言ってメモリアルへの招待を断った。 メモリアル協会は1990年に正式な地位を得るまで、正式には認められなかった。 ソ連崩壊後の1992年4月19日、メモリアルは「歴史、教育、人権、慈善団体」である国際NGOとして再組織され、ロシア、ウクライナ、カザフスタン、ラトビア、グルジア、ドイツ、チェコ共和国、イタリアのソ連崩壊後に生まれた国々にも組織を持つようになり、最近ではフランスにも組織が存在している。
※この「初期の歴史と前身」の解説は、「メモリアル (人権団体)」の解説の一部です。
「初期の歴史と前身」を含む「メモリアル (人権団体)」の記事については、「メモリアル (人権団体)」の概要を参照ください。
- 初期の歴史と前身のページへのリンク