初代・2代目大仏殿についての資料
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「京の大仏」の記事における「初代・2代目大仏殿についての資料」の解説
2代目大仏殿については、指図(設計図)が現存している。こちらも先述のように、豊臣秀頼が2代目大仏殿及び大仏を造立した際に、徳川家康は大工・中井正清を派遣したが、指図(設計図)は中井家に伝来したものである。中井家配下の平政隆が著した『愚子見記』にも、2代目大仏殿についての詳細な記述があるほか、初代大仏殿についても言及している。また江戸中期の作と思われる『京都大仏殿絵図(東京国立博物館所蔵)』にも2代目大仏殿及び仁王門の断面図・立面図が記録されている。その他大仏殿について記録した文献には(先の大仏の項目とも重複するが)以下のものがある。初代大仏殿については、醍醐寺座主の義演の日記である『義演准后日記』、ルイス・フロイスのフロイス日本史 、鹿苑院の院主の日記である『鹿苑日録』にそれぞれ記述がある。2代目大仏殿については、エンゲルベルト・ケンペルの日記に記述がある。 大仏殿を描いた絵図資料について、2代目大仏殿については存立期間が長かったことから、建物外観が名所図会などに描かれ資料が多い。初代大仏殿については、慶長11年(1606年)作とされる豊臣家御用絵師の狩野内膳による『豊国祭礼図屏風』が唯一の作であろうとされる。 初代大仏殿については、2代目大仏殿ほど資料が豊富でなく、建物構造などの全貌の把握が困難である。しかしながら各種文献史料・建築学的知見から初代大仏殿復元案を提示したもので代表的なものには、主に以下の二つがある。一つは内藤昌・中村利則共作による復元案(『ミヤコの変貌 聚楽第と大仏殿』)で、これは1982年に発表されたものである。ただ方広寺大仏殿跡の発掘調査は2000年からなので、復元検討に考古学的知見は踏まえられていない。もう一つは建築史学者の黒田龍二監修の下、大林組が広報誌「季刊大林」で提示した復元案(『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』)である。こちらの発表は2016年で、考古学的知見も踏まえて復元検討がなされている。大林組復元案の特徴としては、初代大仏殿の架構構造を純大仏様構造であったと考え、同じく純大仏様構造の浄土寺浄土堂のように、屋根に反りがないものとして復元している点がある。この点は、屋根に反りがあったとする内藤昌・中村利則による復元案と相違している。 初代・2代目大仏殿は、いずれも細部意匠・細部構造を除いては、概ね同様の仕様であろうと考えられている。 初代大仏殿 (「豊国祭礼図屏風」) 2代目大仏殿 (「東山名所図会」京都府立京都学・歴彩館 デジタルアーカイブ) [参考] 東寺金堂 観相窓と切り上げ破風が特徴 [参考] 東大寺大仏殿 [参考] 東大寺大仏殿の観相窓と唐破風。 [参考] 東大寺大仏殿の寄木柱と金輪(鉄輪)。
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