函館港木造桟橋と函館桟橋乗降場
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「比羅夫丸」の記事における「函館港木造桟橋と函館桟橋乗降場」の解説
ハシケでの乗降の不便さ解消のため、1910年(明治43年)12月15日、その後車両航送用に築造される若松埠頭の基部付近の海岸から西方に1,138フィート(347m)突き出したT字型の木造桟橋を建設して、先端部即ち西面に連絡船が1隻着岸できるようにし、旅客の乗下船と手小荷物の積卸しは直接桟橋で行い、函館駅までは手押しトロッコで運搬されたが、貨物の荷役は依然桟橋係留中の連絡船にハシケを接舷させるハシケ荷役であった。また、この時期に至っても、船客の利便のため東浜町の旧桟橋からのハシケも運航されていた。更に1914年(大正3年)2月26日には桟橋及び通路を拡張し、桟橋北側を浚渫して、北面にも1隻着岸できるようにした。1913年(大正2年)5月の函館大火で駅本屋が類焼したのを機に、1914年(大正3年)12月25日には連絡船待合所を桟橋先端付近に新設した。 1915年(大正4年)6月16日には、木造桟橋上まで鉄道を延長し、函館桟橋乗降場として開業。連絡船接続列車のみこの乗降場からの発着とし、船車連絡時間の画期的短縮が図られた。 木造桟橋完成後も、貨物は依然ハシケ荷役のため、増加著しい貨物輸送に対応するため、1915年(大正4年)には駅裏の防波堤周囲を埋め立てて第1船入澗が築造され、小蒸気船やハシケはここに着岸し、中継貨物ホームも建設され、1921年(大正10年)には第1船入澗の北側に第2船入澗、第3船入澗が相次いで築造された。 1924年(大正13年)4月25日からは、車両航送用の若松埠頭築造工事のため、木造桟橋西面バースを使用停止し撤去開始。5便・6便の客扱いを沖繋りに戻し、同年5月1日には桟橋乗降場への列車運転も停止。同年10月1日には若松埠頭先端部の岸壁(当時は第1岸壁と呼称、1945年(昭和20年)6月以降は第2岸壁と呼称)が一部竣工したため使用開始、これに伴い同日木造桟橋は廃止された。この新岸壁使用開始後間もない10月15日に比羅夫丸が、12月11日には田村丸がそれぞれ係船された。 船の大きさに比べ、大出力の蒸気タービン機関を搭載し、公試最大速力18.36ノットは当時としては画期的で、就航当初の青函間4時間運航は、1964年(昭和39年)に就航した公試最大速力21ノット前後の津軽丸 型による3時間50分運航開始まで破られることはなかったが、両者を比べても、当時の乗組員の定時運航確保への苦労がしのばれるところである。
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