写真と被写体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/26 08:00 UTC 版)
1943–44年の冬、人民解放軍の慰問団がコザラ地域で、第11クライナ旅団クネシュポリェ方面軍からやってきたパルチザンの隊列と偶然出会った。慰問団のバレエ部門長は、ジョルジュ・スクリギンというロシア系のユーゴスラヴィア人バレエダンサーであった。スクリギンは写真術に関しても国際的に名の知られた芸術家であって、1930年代の写真展で多数の賞を受賞した経歴があった。1942年から1945年までの間は500枚近くの戦争写真を撮り、そのうちのいくつかは、のちに社会主義政権下のユーゴスラヴィアにおける「伝説」となった。スクリギンは、隊列の中にいた第11クライナ旅団の指揮官に、女のパルチザン戦士の写真を撮らせてくれと頼んだ。指揮官が部隊から5人の若い看護婦を選んだところ、スクリギンはその5人の中から17歳のミリヤ・トロマンを選んだ。彼女は、コザラ山の麓にあるボサンスカ・ドゥビツァ近くの村 Brekinja 出身のセルビア人( Bosnian Serb )であった。スクリギンは彼女にカーディガンを着せて、銃の負い革を彼女の肩にかけた。そして、彼女がかぶっていた赤い星のエンブレムがついたティトヴカ帽を少し傾けて彼女の髪の毛をなでつけ、「笑顔でたのむよ」と言った。 スクリギンは、内容上の方法論としては現実を直視させるようなレアリスムを、形式上の方法論としてはピクトリアリスムを採用し、これら二つの異なる原理を一つにして戦争写真の中に表現した。1968年に「戦争と舞台」( Rat i pozornica )と題した戦争写真集を出版。同写真集の中でミリヤ・トロマンの写真は、「コザルチャンカ( Kozarčanka コザラから来た少女の意)という題が付された。そのキャプション、説明書きには、彼女の名前に言及することなく次のような伝説が書き込まれた。「まだ若い彼女は、ウジチェ作戦でいったん捕虜になったが、ドイツ人たちをも出し抜いて脱出に成功した。コザラにたどり着いた彼女は、そこでコザラ軍の戦士となった。」作家のナターシャ・ヴィットレッリは、写真について次のように書いている。 若い女性は、肩までの長さの髪を無造作にたらし、厚手のカーディガンを羽織り、五芒星のついた帽子をかぶり――銃を担いでいる。彼女は健康そうに見え、冷静で、ユーモアたっぷりに見える。そしてこぎれいな身なりをしている。肩越しに後ろを見やるそのポーズは活動的な印象を強め、明るい笑顔は自信を楽観主義へとつなぎ、また、喜びを情熱にまでつないでいる。すなわち、戦争の危険や激しさは遠景へと追いやられ、勝利は近いという印象を与える。非常にくつろいだ様子の彼女は、戦争に参加しているようだ、戦争は冒険と社会的性役割の平等を約束する・・・。女性と武器の間の緊張状態は、若きパルチザン勇士の女性性を強調する。しかしながら、銃がないと彼女があまりにも無害そうに見えて、侮ってはならない存在には見えなかっただろう。彼女の少女めいた見かけは、女性パルチザンが暗示する怒りの感情を和らげてもいる。 ミリヤ・トロマンは、戦後まもなくの1946年に、ペロ・マリンという男性と結婚した。コザラで1941年7月下旬に起きたパルチザン闘争以来の戦友である。二人はその地方で最も大きな町であるプリイェドルで暮らし、五人の子供を育てた。ミリヤ・マリンは2007年に受けたインタヴューで、「あの写真が撮られた当時は自分や家族が戦争で苦労していたから、笑いたい気分だったとはとても言えないが、スクリギンに頼まれたとおりにすることには何の問題もなかったから、明るい笑顔で写真に写った」と語った。また、「あの写真に写る前に銃を担いだことは一度もなく、その後もなかった」と語った。ミリヤ・マリンは2007年11月11日に81歳で亡くなった。
※この「写真と被写体」の解説は、「コザラから来た少女」の解説の一部です。
「写真と被写体」を含む「コザラから来た少女」の記事については、「コザラから来た少女」の概要を参照ください。
- 写真と被写体のページへのリンク