兵庫相互銀行への合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 23:44 UTC 版)
「高松相互銀行」の記事における「兵庫相互銀行への合併」の解説
兵庫相互銀行(旧兵庫無尽)との関係は無尽時代から続くもので、乱脈経営による膨大な赤字と上層部の派閥争いで死に体の寸前だった当行を救済し、他行に取り残されていた相互銀行転換を実現させた、いわば高松相互銀行の生みの親である。その後当行は兵庫相互銀行出身の社長の下、役職員の努力でようやく経営は健全化し、「小さいけれども内容のいい相互銀行」といえるまでになった。しかし、社会が自由化の真っただ中にある当時においてはこの「小ささ」が致命的であると考えられ、1969年(昭和44年)の金融二法成立を前後して金融制度調査会では中小金融制度のあり方が審議されていた。 そのように当行の中でも合併が不可避であると認識され始めていた中、翌1971年(昭和46年)3月11日に第一銀行と日本勧業銀行の合併が発表されたことは衝撃的であり、遂に同月29日には社長林宥治から兵庫相互銀行との合併の方針が発表された。その理由としては、やはり日本経済が自由化する世界経済に取り込まれていく中、当行のように体質の弱い小型金融機関が独立した経営を維持していくことが困難と思われたからである。当行は金融機関として後発であり、過去4年間をみても当行の預金量は大きく伸張してきたが同じく伸張を続ける相互銀行の平均に追いつくことはできず、さらに経済規模に劣る四国という立地条件においては単独で飛躍的発展を遂げる望みは薄かった。また、当時公定歩合の引き下げムード等により貸出金利が低下していくことが予想され、ただでさえ一人当たりの経常利益は低く、規模の拡張以上に人件費・物件費が増長し、利ざやが縮小する傾向にあるのは規模の差異を主因とした経営効率の悪さに他ならなかった。その影響で一人当たりの給与と賞与の平均額は兵庫相互銀行と比較して33.1パーセントも低く、収入の安定性を欠く当行では優秀な人材の確保が極めて困難になっていた。 合併期日を発表のわずか半年後である同年10月1日としたのには、対等の条件で合併したいという時期的な理由があった。その一つが合併時の株式である。当時の株式相場は兵庫相互銀行135円に対し、当行が65円でおよそ半分であり、通常では兵庫相互銀行1株に対して、当行2株が相当する。しかし、当行の店舗行政や合併促進行政によるメリットを肯定的に勘案し、当行を優遇する形で1:1の条件とした。これを兵庫相互銀行の株主に納得させる方法として、すでに決定している兵庫相互銀行の増資のタイミングが合併前日の9月30日であり、増資前の株式3に対して新株1を割り当てることで114円ほどになった兵庫相互銀行の株と、合併発表によって値上がりした当行の株価をサヤ寄せすることを狙ったものである。 合併発表に続いて4月30日には両行社長によって合併契約書調印が行われ、そこから約5か月間をかけて法律的な手続きや、株主・労働組合の調整、合併後の従業員の労働条件に関する覚書の締結などが急ピッチで行われ、9月21日に大蔵大臣の合併認可が下り、予定通り1951年(昭和46年)10月1日に両行は合併し、高松相互銀行は約21年の歴史に幕を下ろした。 相互銀行同士の合併では当時福岡相互銀行(現福岡シティ銀行)と正金相互銀行(現福岡中央銀行)が合併交渉を行っていると報じられていたが、実際は当行と兵庫相互銀行が第1号であり、相互銀行の再編成という意味で業界に極めて大きな影響を与えた。この合併について当時四国財務局長の加藤博太郎は「四国から相互銀行が一つ消えてゆくことは淋しいことではあったが、大局的には結構なことであり推進した。」と回顧している。
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