兵庫支部開設と全世界選手権を連覇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 04:27 UTC 版)
「中村誠 (空手家)」の記事における「兵庫支部開設と全世界選手権を連覇」の解説
第2回全世界選手権後の1981年(昭和56年)中村は大山倍達より兵庫県支部長の認可を受け、本部道場を離れる。芦屋市にある仏教会館に支部発足最初の道場を設立後、支部発足2年後には常設道場を尼崎市に開設した。一方で1980年(昭和55年)の第12回オープントーナメント全日本空手道選手権大会では決勝まで進むが延長3回の末、体重と試割り判定で三瓶啓二に敗れる。1981年(昭和56年)の第13回全日本選手権も再び三瓶と戦い、同じように体重と試割り判定で負け、2年連続準優勝となった。しかし、第11回全日本選手権から4回連続、三瓶と決勝で対戦している事から、マスメディアは三誠時代と呼んでいた。 1982年(昭和57年)の第14回全日本選手権では4回戦でアデミール・ダ・コスタと対戦。試合は予想に反して延長2回までもつれ込む激戦となった。アデミールは、中村の前蹴りを下段払いと、フットワークで回り込みながら、左後ろ回し蹴りや後ろ蹴りで反撃。左変則回し蹴りで中村は顔面に蹴りを入れられるなど、アデミールのペースで試合は進み、判定3対0で敗北した。 中村は選手権大会から退く事を宣言し、兵庫支部の運営に専念しだす。1983年(昭和58年)の第15回全日本選手権にも出場せず、周囲は完全に引退したと思っていたが大山倍達の命により、1984年(昭和59年)の第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会に推薦で出場する事となった。 大会初日、2日目は順調に勝ち上がり、迎えた最終日の4回戦で「イギリスの黒豹」の異名を持つマイケル・トンプソンと対戦。延長2回で一旦は中村に優勢勝ちと判定が下ったが、最高審判長である大山倍達は「明確な決着がつくまで試合を続行する」事をアナウンスした。結局合計5回の延長戦にまでもつれ込み、技ありを奪って辛勝した。その後は順調に勝ち進み、準決勝でアデミール・ダ・コスタと再戦。滑らかなフットワークと多彩な蹴り技でここまで全く危なげなく勝ち進んできたアデミールに対して、一度敗れている中村が苦戦をするという予想が大勢を占めたが、結果は全く逆となり中村が一気に詰め寄り、突き・蹴りと攻撃し、アデミールはただ後退を繰り返し、場外へ逃げる展開であったため、大差の判定で中村はアデミールに勝利し、雪辱を果たした。決勝では「三誠時代」という一時代を築いた宿敵・三瓶と対戦。延長1回5対0で三瓶を下し、前人未到の全世界選手権連覇を成し遂げ、再び世界チャンピオンとなった。
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