会社清算に至るまで
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「茨城観光自動車」の記事における「会社清算に至るまで」の解説
2001年(平成13年)5月23日、茨城新聞1面に「茨城観光自動車が廃業」との記事が大見出しで掲載されて、茨観が経営危機であることが報じられた。この紙面における社長のコメントは「赤字路線を抱えることから、その赤字額が膨らんだため」としている。負債金額は12億円である。本業ではなく不動産での失敗が原因だったとも言われている。 営業末期は運輸省による経営改善の指導により路線廃止が相次いだ(2000年(平成12年)12月の上郷線が廃止、2001年(平成13年)5月に土浦駅乗り入れ廃止)。また、一部の社員が退職してしまい、竜ヶ崎ニュータウン線で廃止期日まで運行ができなくなる事態になり、共同運行相手の関東鉄道が急遽、社員と車両を各営業所から掻き集めて運行を確保していた。 茨観は会社幹部が姿をくらます事態になり、労働組合が窓口になり陸運支局や茨城県庁や沿線市町村との協議を続けたが、県庁にも担当部署がなく協議は難航した。当時、全国には3ヶ所ほど廃業を打ち出している会社があった。 そんな状態の中、上郷線が他線に先がげて廃止を表明した時、茨城県内の観光バス会社が路線バス進出したいということで話し合いがもたれた。しかし、1985年をピークに利用客が減少していた同線は、古参社員が多く営業収入よりも人件費が上回ると言うことで、断念し廃止された。その反面ベッドタウンとして収益増だった牛久(みどり野団地など)・竜ヶ崎ニュータウンなどの路線を欲しがる会社が多数現れたため、奥野事務所に本社機能を移し新茨城観光バスという組合主導の新会社を設立し、銚子電気鉄道を見習い日本私鉄労働組合総連合会の指導の下、牛久・龍ヶ崎地区をメインに営業を継続する道も探られたが、法律の壁は厚く、運輸省等が調整をして各市町村が既存会社に補助金をつけるという形でこの路線は既存の2社(関東鉄道、ジェイアールバス関東)に移管されることとなった。当時並行して、広域事業組合を設立しバスを運行する道も話し合われたが、一部関係市町村がバス事業に関して無関心なために周辺市町村で安易に補助金を付けることで放棄、現在のバス路線網の衰退(牛久市・龍ケ崎市・稲敷郡部など)に繋がった。 その後に、茨観としては営業権を放棄することになったものの、中途でバスの運行を止めるわけにも行かず、廃業日までの1年間にわたり労働組合による自主運営のもとでダイヤ作成や運行管理が行われたが、経営陣の一人がタクシー部を独立させ有限会社茨観タクシーとして運行したことが労働基準局の指導で倒産とみなさないことになるため、急遽2001年(平成13年)10月末日をもって廃業、清算業務に入り2002年(平成14年)5月に会社が法的に消滅した。 当時、社員達の再雇用先として関東鉄道と言う話で決まっていたが、関東鉄道も合理化中であることから内部で異論が出て廃業まで2ヶ月を切った頃、関鉄観光バスで再雇用と言うことに急遽変更され、従業員の大半が路線バス乗務員であったために再雇用に応じず、自主的に再就職の道を選ぶことになった。 しかし、廃止日の2年ほど前から存続の道を含め関係監督省庁と協議をしてきたが、急遽廃業が出来ないし前例が無く公共交通であるがために影響が大きいと運輸省、茨城県庁によって進展が無い状態であった。その協議している間にも無給状態に近い形で引っ張られたために未払い賃金等が数億あり、法的手段や国の制度を利用をして労働債権を回収するのに、廃業後一部の組合役員達が1年間にわたり動いた。
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