会津松平家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 00:53 UTC 版)
松平容保(まつだいら かたもり) 演:綾野剛(幼少時:山下哲平) 会津藩第9代藩主。幼名は銈之丞(けいのすけ)、官名は肥後守(ひごのかみ)。会津中将とも呼ばれる。 美濃国高須藩に生まれ、12歳で会津藩主・松平容敬の養子となり、その跡を継ぐ。養子だからこそ会津のために尽くしたいという思いが強いが、皮肉にもそれが後に言われる「会津の悲劇」を招くことになる。 幕末情勢の混乱の中、幕府より京都守護職の就任要請を受け、当初は拒むも、藩祖・保科正之より伝わる会津家訓の精神を貫かんと、家臣らの強い反対を押し切って就任の決断を下す。 着任当初は言路洞開路線をとって尊攘派との融和を図るが、彼らの真意が倒幕にある事を知ると一転して厳罰主義を採り、藩士や新選組を使い取り締まった。しかし、却って尊攘派の恨みを受け、また都で会津の武名が上がったことから幕府からも疑いの目を向けられる。藩の疲弊を理由として帰国を望むが叶わず、孝明天皇の崩御後は、王政復古や鳥羽・伏見の戦いを経て朝敵の汚名を受け、失意のうちに会津に帰国する。 新政府には武備恭順の態度を示す一方で、万一に備えて軍制改革を行う。白河口が破られ、会津城下での戦いが必至となると会津は会津の手で守ると重臣らを奮い立たせたが、会津勢は苦戦を強いられ、苦渋の決断で降伏した。この直前、萱野権兵衛への伝令役という形で西郷頼母を城から追い出すが、これは彼に生きて会津の汚名をすすいで欲しいとの願いから下した決断である。そして彼の背中を見届けながら「生きよ…、頼母…」と無事を願っていた。 降伏後は謹慎し、会津戦争の戦没者の冥福を祈る日々を過す。のちに高木時尾と藤田五郎の結婚の仲人を元家臣の佐川とともに務めたが病に倒れ、会津の名誉回復を山川兄弟に託して息を引き取った。 松平照(まつだいら てる) (照姫 → 松平照) 演:稲森いずみ 容保の義姉。 文武両道に優れており、その人柄は八重たち会津の女性たちに深く慕われている。 互いに他家(照姫自身は飯野藩保科家)からの養子であるために容保とは血の繋がりは無く、それ故か彼に幼い頃から想いを寄せていた。一度は他家に嫁ぐが、離縁されて会津松平家に戻り、容保夫妻と江戸上屋敷に住まうが、後に会津に移る。鶴ヶ城篭城戦では城内の女性たちをまとめ、降服の際には自ら白旗に「降参」と書き入れた。 戊辰戦争後は実家・保科家に預けられていたが病に倒れ、容保に看取られて息を引き取った。 松平容敬(まつだいら かたたか) 演:中村梅之助 会津藩第8代藩主。照姫、容保の養父。 容保に対し、「徳川将軍家への忠義を第一に掲げる会津家訓に沿って生きるように」と説いた。 しかし、これが図らずも、後に容保を始めとした会津藩全体を最悪の凶事へと導く事を運命づけてしまう。 敏姫(としひめ) 演:中西美帆 容保の正室。松平容敬の実娘で、照姫と容保にとっては義妹。 疱瘡を患い、照姫に「姉として容保を支えて欲しい」と遺言して世を去る。 松平喜徳(まつだいら のぶのり) 演:嶋田龍 会津松平家第10代当主。容保の養嗣子で徳川慶喜の実弟。幼名は余九麿(よくまろ)。
※この「会津松平家」の解説は、「八重の桜」の解説の一部です。
「会津松平家」を含む「八重の桜」の記事については、「八重の桜」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から会津松平家を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 会津松平家のページへのリンク