以後の回復と後退
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「大不況 (1873年-1896年)」の記事における「以後の回復と後退」の解説
1878年に景気は回復し始めた。鉄道の敷設距離は1878年の2,665マイル(4289km)から1882年の11,568マイルへと伸びた。1879年までに建設業の景気も回復し、1878年から1883年の間に、建築許可数は2.5倍に増え、入国する移民数が多かったにも関わらず、失業率は2.5%も低下した。全米経済分析局によれば、米国では1879年3月まで不況が続いたとしている。1879年の1月、米国は南北戦争の時に一旦離脱していた金本位制に復帰した。エコノミストのレンディグス・フェルスによると、金本位制によってデフレーションは底打ちし、また1879年の農作物の生産高が特に好調だったことも受けて、景気が回復し始めた。現代になって行われた再調査では、単一の不況が1873年から1896年(もしくは1897年)まで続いたという見方は大方支持されていない。実際、1869年から1879年にかけて、米国経済は実質国民総生産(NNP)で6.8%、一人当たりの実質国移民総生産で4.5%の成長を遂げていた。実質賃金は1869年から1879年にかけて上昇しなかったが、名目賃金は23%上昇し、物価は4.2%低下した。 しかし、この景気回復は長くは続かなかった。企業の利益は1882年から1884年の間に急激に低下した(英国百万ポンド単位投資額推移北米向け28.6・16.6・15.1)。鉄道建設事業の景気は再び悪くなり、一年あたりの鉄道敷設距離は1882年の11,569マイル(18,619km)から、1885年の2,866マイル(4,612km)まで減少した。鉄道線路の価格は1880年の1トンあたり71ドルが、1884年には1トンあたり20ドルまで下落した。製造業は再び停滞した--耐久消費財の生産は再び25%減少した。1884年の別のの経済危機(これは複数のニューヨーク銀行が倒産したことによるもの)により、さらなる価格下落が生じた。それと同時に、1883年から1884年にかけて、米国が金本位制を廃止しようと準備しているとの恐れを抱いた海外投資家が、所有する数千万ドル相当の米国証券を売り払った。この経済危機は11行ものニューヨーク銀行、100行以上の州立銀行を破綻に追い込み、少なくとも3,200万ドルの借金が債務不履行に陥った。失業率は、二つの不況の間のつかの間の好景気の時には2.5%程度だったが、1884年から1885年にかけて7.5%まで急上昇した。労働市場が悪化したことで移民の数が減少したにもかかわらず、米国北東部では失業率は13%にも上った。 2番目の不況によって、農産物価格はさらに低下した。カンザス州の農家は、1885年には自らトウモロコシを燃やしてしまった。というのも、当時はトウモロコシの方が石炭や木材などの他の燃料よりも価値が低かったからである。1885年に経済は再び回復し始めた。 この節は今のところ、合衆国に着目した場合に最も重要な1900年前後の説明を欠いている。合衆国の大不況は世界恐慌へ続いている。
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