他のフランスサッカー統括組織との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 04:29 UTC 版)
「USFSAフランスサッカー選手権」の記事における「他のフランスサッカー統括組織との関係」の解説
初期はイギリスのプロフェッショナリズムへの嫌悪感からサッカーを扱うことに慎重だったUSFSAだが、彼らは結果的にフランスで最初のサッカー統括組織となった。だが対抗勢力は19世紀中に早くも現れた。この時期にフランスサッカーの普及に貢献したのは、意外なことに自転車競技の「フランス自転車連合」に属するサッカークラブだった。彼らは「フランスアマチュア自転車連盟」のプロフェッショナリズム厳禁の体質を嫌い、独立して自分たちの組織を立ち上げたのである。1897年、つまりUSFSAフランスサッカー選手権の創設からわずか3年後、フランス競技団体連盟 (FSAF)がFSAFフランスサッカー選手権を立ち上げ、アマチュア規定違反でUSFSAを追い出されたクラブを受け入れた。そしてUSFSAへのアンチテーゼとしてサッカー選手のプロ待遇を容認したのである。1906年に両組織は協定を結び、USFSAはFSAFのプロフェッショナリズムを容認したので、FSAFは「フランス・プロフェッショナル競技団体連盟」 (FSAPF)と改名し、1905年にできた彼らのFSAPFフランスサッカー選手権は翌年からフランス初の完全なプロリーグとなった。その最初の決勝はメディアの興味を引き付けたが、第一次世界大戦が勃発した1914年シーズン以降、このプロリーグは二度と開催されなかった。急激なサラリーの高騰もさることながら、加盟クラブの激増により遠征費用が高くついたことも破綻の原因だった。 フランス自転車競技連盟 (FCAF)はその名称に反して、1902年ごろにはもう自転車競技そっちのけでサッカーにのめりこんでおり、USFSAのサッカー統括権を侵食し、やがては自分たちが独占することをもくろんでいた。彼らも1904年から1914年まで独自のFCAFフランスサッカー選手権を開催していた。 自転車系団体の次にUSFSAを脅かしたのはパトロンの存在だった。彼らはスポーツの世界でははじめに体操を支援したが、やがてサッカーの世界にも進出してきた。カトリック系のメセナ団体「パロワス・サン=オノレ=デロー」は1898年にスポーツクラブ、エトワール・デ・ドゥ・ラックを創設。ポール・ミショーは「フランス体操・スポーツ後援連盟」 (FGSPF)を作り、1901年にはこの連盟がさらにFGSPFフランスサッカー選手権を立ち上げる。カトリック系サッカーチームが大挙してFGSPFの大会に参加し、1906年にはその数は64チームに上り、USFSAの支配力に迫っていた。だがこうした統括組織乱立にもかかわらずUSFSAは1906年にセーヌ県で40の加盟クラブを抱え、それに対しFGSPFは25クラブ、FSAFは10クラブ、FCAFは6クラブだった。 1906年、各連盟あわせてサッカー競技人口は1万人を超えていた。1905年に政教分離法が施行されると、USFSAとFGSPFの関係が悪化する。同時期にエトワール・デ・ドゥ・ラックとガリア・クラブが加盟組織の枠を超えた親善試合を行ったのだが、しかしUSFSAは「政治的かつ宗教的な要素を排除する」ことを目的に、FGSPF加盟クラブとの対戦を禁止した。1907年にフランス代表はイギリスのクラブチーム「ノースロンドン・アマチュアFC」に勝利し、イギリス人チームに珍しく勝利を記録するのだが、実はこのフランス代表はUSFSAとはパラレルに組織された、FGSPFによる「別のフランス代表」だった。フランス代表を名乗るチームがパラレルに複数存在するほどに、両者の対立は深刻だったわけである。パトロンの台頭は、のちにUSFSAに最大の困難をもたらす政敵シャルル・シモンを勢いづかせた。 シャルル・シモンはサッカー界内外の5つの団体を再編して、1907年に「フランス連盟間委員会] (CFI)と「トロフェー・ドゥ・フランス」を創設した。シャルル・シモンの特徴は一貫して「反USFSA」であり、明らかにUSFSAを潰しに動いていた。これまで名前が挙がったほとんどの統括組織に対してトロフェー・ドゥ・フランスは門戸を開いており、だから名前が「連盟間委員会」なのだが、しかし唯一USFSAのクラブだけは排除されてしまった。USFSAはFIFAにおいても1907年から1908年にかけて自滅的行動をとり、折しもイングランドのアマチュアFAが加盟交渉を絶ったことから、アマチュアリズム至上主義であるUSFSAはこの国際組織におけるフランス代表権を辞退してしまう。シモンはこれを利用し1909年にCFIは後継組織に立候補、そして1910年に正式にFIFAのメンバーシップを獲得した。これによりCFIはフランス代表を組織したりクラブの国際試合を許可する権限も得たのである。USFSAに属するパリのクラブチームにとって外国クラブとの対戦は大きな入場料収入になっていたから、これは経営的に大ダメージだった。レッドスターFC93、CAPシャラントン、USシュイッス、パリ・スターなどはリーグ・ドゥ・フットボール・アソシアシヨン (LFA)を創設した。LFAは1911年からLFAフランスサッカー選手権を開催、CNIにも接近し反USFSA陣営を形成した。LFA選手権は1911年には36クラブが参加する規模となり、疎外状態に耐えられなくなったUSFSAは1913年、CNIに頭を下げてトロフェー・ドゥ・フランスに参加させてくれるよう頼んだ。
※この「他のフランスサッカー統括組織との関係」の解説は、「USFSAフランスサッカー選手権」の解説の一部です。
「他のフランスサッカー統括組織との関係」を含む「USFSAフランスサッカー選手権」の記事については、「USFSAフランスサッカー選手権」の概要を参照ください。
- 他のフランスサッカー統括組織との関係のページへのリンク