仏教における神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:11 UTC 版)
仏教を考える場合、釈迦の教えとそれを継承していった教団のレベルと、土着信仰を取り込んだ民衆レベルとを混同しないで、それぞれについて議論する必要がある。 釈迦は、人間を超えた存在としての神に関しては不可知論の立場に立ち、ヴェーダーンタの宗教を否定・捨てた人であるという主張もある。一方で、釈迦は人間を超えた存在(非人格的)を認めており、ただ単にその理解の仕方がキリスト教やヒンドゥー教などの人格神とは異なるだけという意見もある。 浄土真宗の親鸞は、和讃において「弥陀の浄土に 帰しぬればすなわち諸仏に 帰するなり」と説いており、阿弥陀如来に帰依すれば、あらゆる神仏に帰依するものとしている。 現代日本では仏教はもっぱら霊魂の永遠不滅を前提とした葬式を扱う宗教と見られることが多いが、古代インドの部派仏教では死後も残る魂(アートマン)のようなものを否定する部派も存在し、現代日本においても無霊魂説を前提に仏教は無神論であると考える学者や僧侶は存在する。ここにおいても民衆の信仰の形とは大きな差異がある(釈迦は、自己の魂(アートマン)が死後も残るのかとの議論に対し、回答をしない(無記)という態度をとったが、この態度は、アートマンが残り輪廻するというヴェーダーンタの宗教を拒否しているとも受け取られた)。 古代インドの宗教的な文書(ヴェーダ)では、全ての神々は梵(ブラフマン)から発生したと見なされており、仏典の「梵天勧請」の説話には、釈迦が悟った後、「悟りは微妙であり、欲に縛られた俗人には理解できない。布教は無駄である。」として沈黙していたので、神(デーバ)の一人である梵天(ブラフマン)が心配してやって来て「俗人にもいろいろな人がいるので、悟った真理を布教するよう」に勧めて要請し、釈尊がそれを受け入れたという物語などが残っている。 一方、民衆レベルでは、仏もこの記事で扱うところの広い意味での「神」の一種であるといえる。日本では死亡を「成仏」と、死者を「仏」と呼称するに至る。この場合の仏とは、参拝し利益を祈願する対象であって、かつての原始仏教でそうであったような「教えを学び、悟る・覚醒する」という対象ではない。ただし、日本における仏は、キリスト教の訳語としての「神」が定着する以前からの存在であり、一般的な日本語において神と仏とは区別して用いられる(神像と仏像など)。
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