仏教における苦行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 07:53 UTC 版)
開祖釈迦本人は出家した後、断食などを伴う激しい苦行を積んだが、悟りを開いてから、苦行はいたずらに心身消耗するのみで、求めていたもの(真理)は得られぬと説いている(初転法輪)。 比丘たちよ、世の中には二つの極端がある。出家者はそれに近づいてはならない。何が二つの極端なのか。一つめは、欲と愛欲や貪欲をよしとすることで、これらは下劣かつ卑賤、つまらぬ人間のやることで、無意味で無益である。二つめは、自分に苦難を味わわせることは、苦痛であり、無意味で無益である。比丘たちよ、如来はこの二つの極端を捨て、中道を認知したのである。それこそが、観る眼を生じ、英知を得、證智をもち、定(サマーディ)、涅槃に至る道である。 —大犍度, パーリ仏典, 38 Mahakkhandhakaṃ, Sri Lanka Tripitaka Project
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