人魚の夜明け作戦による首都陥落・カダフィ政権崩壊
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「2011年リビア内戦」の記事における「人魚の夜明け作戦による首都陥落・カダフィ政権崩壊」の解説
8月20日夜、トリポリ市内東部のタジューラ地区で銃撃戦が発生、市内の情報当局ビルや空港地区をすばやく占領した。包囲軍の一部も合流し、市内各所で明け方まで衝突が続いた。この首都攻略作戦は「地中海の人魚」と言われるトリポリにちなんで「人魚の夜明け作戦(英語版)」と呼ばれた。 カダフィ大佐は21日未明に音声メッセージを発し、「ネズミ(反体制派)は人民に攻撃され排除された」と主張した。市内の反体制派の攻撃はやまず、郊外にある政権の武器庫となっていた基地を奪取、カダフィ大佐の居住区バーブ・アズィーズィーヤ(英語版)にNATO軍の空襲が行われた。カダフィ側の政府報道官は同日、反体制派と交渉する用意があることを示し、攻撃停止をNATOに要請した。同日中に市内で1300人が死亡したと発表したが、評議会は「悪質なプロパガンダだ」と反論した。NATO発表では死者は31人であった。またカダフィ大佐は再びメッセージを流し、抗戦を呼びかけた。 その日のうちに長男のムハンマド、次男のサイフルイスラーム、三男のサアディーが相次いで降伏、拘束されたと報道された。市民の心はカダフィ大佐から離れており、深夜にカダフィ大佐が3度目のメッセージを流した頃にはすでに大勢は決していた。報道陣も市内へ入り、「トリポリ解放」に喜ぶ市民の姿を映した。また、アル=マフムーディー首相がチュニジアへ亡命した。 22日早朝までにはバーブ・アズィーズィーヤ地区を除く市内全域が制圧された。首都中心部にある緑の広場は未明に解放された直後から市民が事実上の政権崩壊を祝い、評議会の軍人も続々と駆けつけた。カダフィ政権の象徴であった緑の広場はすでに「殉教者の広場」と呼ばれていた。午後には国営テレビが制圧され、カダフィは情報発信の重要な拠点を失った。トリポリ国際空港も制圧され、アブドルジャリルは「カダフィ政権崩壊」を宣言した。 22日夜、ムハンマドの自宅に政府派の兵士が突入し、軟禁されていたムハンマドが解放された。また23日未明、バーブ・アズィーズィーヤ地区にあるサイフルイスラームの自宅に招かれたメディアの前にサイフルイスラム本人が姿を現し、「拘束されたと言う情報はデマだ」と述べた。その足で各国メディアが滞在しているリクソス・ホテルに出向き、支持者らとともに気勢を上げた。サイフルイスラムが拘束されていなかったのかは不明である。 23日午前、NATOの空爆を合図に地上軍がバーブ・アズィーズィーヤ地区に突入し、5時間に及ぶ戦闘の末に陥落させた。カダフィ政権は完全に崩壊したが、カダフィ大佐本人及び息子たちは発見されなかった。住居地下に大規模な地下通路が発見され、大量の備蓄が見つかった。評議会は、トリポリにおける被害を死者400、負傷者2400と発表した。24日午後、リクソス・ホテルに監禁されていた海外取材陣約30名が5日ぶりに解放された。国境なき記者団は非難の声明を発表した。 その後も南部を中心に局地的な戦闘が続いた。27日未明、反カダフィ軍はサラハディン地区に残ったカダフィ派のトリポリ最後の要塞に突入し、7時間に及ぶ戦闘の末陥落させた。また同日、トリポリ国際空港付近一帯も制圧し、首都奪還を完了した。
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