人工意識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 14:15 UTC 版)
詳細は「人工意識」を参照 強いAIの可能性を論じるとき、「心身二元論」の性質と記号処理の役割の問題が出てくる。ジョン・サールらは議論を通じて、符号化されたデータの変換によってだけ作業するマシンが精神を持てるのかを検討した。これは一元論対二元論といった問題を超えるものではない(すなわち、生物学的機械を含むどのような機械でも、精神を持てるか)。 サールは中国語の部屋という形で情報処理装置が何らかの事物を表す符号化されたデータを処理する様子を表現した。符号化されたデータ自体はそれによって表されている事物との相互参照なしでは無意味である。そのため、サールは情報処理装置自体には意味を理解する能力が全く無いとした。結果としてサールは、チューリング・テストに合格するマシンであっても、人間的な意味での意識を持たないだろうと主張している。 哲学者の中には、弱いAIが実現可能なら、強いAIも実現可能なはずだと主張する者もいる。ダニエル・デネットは『解明される意識』の中で、魔法のスパークや魂がなければ人間も単なる機械であると主張し、機械が知能や「精神」を伴ったとき、人間という機械が特権的な立場でいられるだろうかと問うた。同書の中で彼は意識の「多元的草稿」モデルを提案している。サイモン・ブラックバーンは哲学入門書 Think において、「あなたは知能を持っているかもしれないが、それが本当に知能かどうかを知る方法はない」と指摘している。しかし、議論を人工意識よりも「強いAI」に限定するなら、情報処理コンピュータに関係ない人間の精神機能を特定することは可能かもしれない。 強いAIの信奉者の多くは、精神はチャーチ=チューリングのテーゼで表されるチューリングマシンで実現可能と考えている。この考えは極端にいえば、バベッジの解析機関や(構築可能ならば)鉄球と木材でできたチューリングマシンにも精神が宿ることを意味する。これは、デイヴィッド・チャーマーズの汎経験説に近い考えである。しかし、汎経験説と同様に、日常的な常識からの隔たりが大きいため「その結果はあまりに常識に反する」といった形で批判される事が多い。 ロジャー・ペンローズはチューリングマシンの停止問題を論じることで、チャーチ=チューリングのテーゼの適用可能性を攻撃し、情報システムでは実行できないが人間の精神には実行できる計算が存在するとした。しかし、これは明らかに計算可能性の問題ではなく、シミュレーションの問題 — すなわち同じ計算を別のテクノロジーで行うという問題である。 脳の神経系は超並列的パターン照合が可能であり、これにより知覚と自覚の即時性が生じる。視野にある物を識別するという意味の「視覚」、自己を感じるという意味の「意識」、精神的に生じる身体感覚という意味の「感情」といった観念は、より高いレベルの概念を生じる。サールの中国語の部屋は、記号処理と生物のシステムの身体性がどのように結びつくかという「意味論的マッピング」を説明できない。脳自体は感じていないが、感覚を生じている。 最終的に、強いAIが実現するかどうかは、情報処理機械が意識などの精神の全ての特性を持てるかどうかに依存する。弱いAIと強いAIの問題は独立であり、ほんの一世紀前には乗算やデータベース検索といった現代のコンピュータが持つ機能の多くが「知的」であると考えられていたであろうことも確かである。
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