享受と研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 13:37 UTC 版)
『土佐日記』はその成立から二、三十年ほどすると、その内容が注目され読まれていたらしく、『後撰和歌集』には『土佐日記』に記されたうちの和歌2首が、語句に異同はあるものの貫之の作として採られている。ちなみに『後撰和歌集』の撰者のひとりである紀時文は貫之の息子である。その時文と親交のあった恵慶法師の私家集『恵慶集』には、『土佐日記』を絵にしたものがあったことが記されている。 研究史においてもっとも古いものは、文暦2年の定家書写時の鑑定であろう。定家は原本である貫之自筆本について、その形態が巻子本だったこと、またその紙の寸法や枚数、紙質等を定家本の巻末に書き記している。三条西実隆は筆写の折、句読点や声点を施し、ほかにも校合が試みられている。 元和・寛永のころになって註釈的研究が盛んになり、岸本由豆流が諸抄論においてあげた『土佐日記聞書』などは、その最初のものである。加藤磐斎の『土佐日記見聞抄』は年代がなく成立年は不明であるが、万治4年(1661年)の跋がある人見卜幽の『土佐日記附注』、北村季吟の『土佐日記抄』などと同時期のものであるらしい。 本居宣長は『土佐日記抄』には『土佐日記附注』の影響が見られるとするが、岸本由豆流は、両書で引用している古典籍の相違が説明できないと指摘している。寛永4年(1627年)5月に刊行された『土佐日記首書』は、ほとんど『土佐日記抄』のままである。加藤宇万伎は、契沖と賀茂真淵との説を併記した『土佐日記註』を書いた。また上田秋成は、真淵の説に自らの説を添えたものを刊行している。さらに真淵の説は、楫取魚彦によって別に書き記され、『土佐日記打聞』や『土佐日記聞書』となった。『土佐日記註』と『土佐日記打聞』とで説の相違があるのを、岸本は「魚彦がしるせるは県居翁の早くの説、宇万伎がしるせるは、後の説なるべし」としている。 岸本由豆流はのちに『土佐日記考証』(文化12年〈1815年〉ごろか)を著し、諸抄を取捨選択、綿密な考証を試み、富士谷御杖は『土佐日記灯』をあらわして一大研究をうちたてた。香川景樹も『土佐日記創見』(文政6年〈1823年〉)を著し、綿密な考証をなしている。この3著は研究史上重要なものである。これらの研究は本文批評や諸本研究上高い成果をもたらしただけでなく、文体、動機などにまで論を推し進めている。 明治になると前田家蔵の定家本や三条西家本が公開され、橘純一や山田孝雄などによって本文研究が進められた。為家筆本はこの当時所在が知られていなかったが、為家本を忠実に写したとされる青谿書屋本などをもとにして池田亀鑑がなした『古典の批判的処置に関する研究』(1941年)にいたって本文研究はほとんど完成するに至った。池田は諸本の研究の上、120種以上に及ぶ写本群から貫之自筆本再構のために証本を選んだ。 為家筆本は1984年に再発見され、青谿書屋本における誤写が確認された。
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