享徳の乱勃発(成氏の攻勢)
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「足利成氏」の記事における「享徳の乱勃発(成氏の攻勢)」の解説
享徳3年12月27日(1455年1月15日)に、成氏は関東管領上杉憲忠を御所に呼び寄せて謀殺した。京都では東国から事件の報せが届いた時、父を死に追いやった上杉氏への恨みが原因とみなされた(『康富記』)が、実際には鎌倉府内部の対立が大きな要因と考えられる。この憲忠謀殺をきっかけとして、以後約30年間に及ぶ享徳の乱が勃発する。 翌享徳4年正月に、成氏は上杉勢の長尾景仲・太田資清を追って鎌倉を進発した。正月廿一日(21日)・廿二日(22日)の武蔵分倍河原の戦いでは、上杉憲秋・扇谷上杉顕房を戦死させた。3月3日には、成氏は下総古河に到着しており、さらに各地を転戦する。敗れた上杉勢が常陸小栗城に立て籠もると、成氏はさらに攻め立てて、閏4月に小栗城を陥落させた(『鎌倉大草紙』)。
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