享徳の乱勃発とは? わかりやすく解説

享徳の乱勃発(成氏の攻勢)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 23:15 UTC 版)

足利成氏」の記事における「享徳の乱勃発(成氏の攻勢)」の解説

享徳3年12月27日1455年1月15日)に、成氏は関東管領上杉憲忠御所呼び寄せて謀殺した。京都では東国から事件報せ届いた時、父を死に追いやった上杉氏への恨み原因みなされた(『康富記』)が、実際に鎌倉府内部対立大きな要因考えられる。この憲忠謀殺きっかけとして、以後30年間に及ぶ享徳の乱勃発する。 翌享徳4年正月に、成氏は上杉勢長尾景仲太田資清追って鎌倉進発した。正月廿一日21日)・廿二日22日)の武蔵分倍河原の戦いでは、上杉憲秋扇谷上杉顕房戦死させた。3月3日には、成氏は下総古河到着しており、さらに各地転戦する。敗れた上杉勢常陸小栗城立て籠もると、成氏はさらに攻め立てて、閏4月小栗城陥落させた(『鎌倉大草紙』)。

※この「享徳の乱勃発(成氏の攻勢)」の解説は、「足利成氏」の解説の一部です。
「享徳の乱勃発(成氏の攻勢)」を含む「足利成氏」の記事については、「足利成氏」の概要を参照ください。

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