享徳の乱終結とは? わかりやすく解説

享徳の乱終結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 23:15 UTC 版)

足利成氏」の記事における「享徳の乱終結」の解説

文明3年1471年3月、成氏は小山氏結城氏軍勢と共に遠征して伊豆堀越公方攻めたが、敗れて古河城撤退した(『鎌倉大草紙』)。この遠征失敗の影響大きかった幕府帰順命令に、小山氏小田氏等の有力豪族応じようになったため、古河城も安全ではなくなり、5月上杉勢長尾景信古河向けた総攻撃開始すると、千葉の千葉孝胤元に退避した(『鎌倉大草紙』)。しかし上杉勢古河城に入るだけの力がなく、文明4年には千葉孝胤結城氏広那須資実や弟の雪下殿尊敒の支援により、成氏は古河城帰還し、後に小山氏も再び成氏方に戻った一方文明8年1476年)、山内上杉家では家宰後継争い原因となり、長尾景春の乱発生した文明9年1477年正月長尾景春武蔵鉢形城拠点として上杉勢五十子陣攻撃し、これを破壊したため、対古河公方攻守網が崩れる。最終的に景春の反乱扇谷上杉家家宰太田道灌活躍によって鎮圧されるが、上杉氏動揺大きかった古河公方勢との戦いだではなく上杉家内部対立山内扇谷上杉氏間の対立大きな問題となったのである文明10年1478年正月に成氏と上杉氏との和睦成立(『松陰私語』)すると、長年難航していた幕府との和睦交渉も、越後守上杉房定幕府管領細川政元との仲介に立つことで進展し文明14年11月27日1483年1月6日)に古河公方幕府和睦成立した。これを「都鄙合体(とひがったい)」)と呼ぶ。この結果堀越公方足利政知伊豆1国のみを支配することとなり、政治的には成氏の鎌倉公方地位あらため幕府承認されたと考えられる

※この「享徳の乱終結」の解説は、「足利成氏」の解説の一部です。
「享徳の乱終結」を含む「足利成氏」の記事については、「足利成氏」の概要を参照ください。

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