享徳の乱終結
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文明3年(1471年)3月、成氏は小山氏・結城氏の軍勢と共に遠征して、伊豆の堀越公方を攻めたが、敗れて古河城に撤退した(『鎌倉大草紙』)。この遠征失敗の影響は大きかった。幕府の帰順命令に、小山氏・小田氏等の有力豪族が応じるようになったため、古河城も安全ではなくなり、5月に上杉勢の長尾景信が古河に向けた総攻撃を開始すると、千葉の千葉孝胤の元に退避した(『鎌倉大草紙』)。しかし上杉勢も古河城に入るだけの力がなく、文明4年には千葉孝胤、結城氏広、那須資実や弟の雪下殿尊敒の支援により、成氏は古河城に帰還し、後に小山氏も再び成氏方に戻った。 一方、文明8年(1476年)、山内上杉家では家宰の後継争いが原因となり、長尾景春の乱が発生した。文明9年(1477年)正月、長尾景春は武蔵鉢形城を拠点として上杉勢の五十子陣を攻撃し、これを破壊したため、対古河公方攻守網が崩れる。最終的に景春の反乱は扇谷上杉家家宰の太田道灌の活躍によって鎮圧されるが、上杉氏の動揺は大きかった。古河公方勢との戦いだけではなく、上杉家内部の対立や山内・扇谷両上杉氏間の対立が大きな問題となったのである。 文明10年(1478年)正月に成氏と上杉氏との和睦が成立(『松陰私語』)すると、長年難航していた幕府との和睦交渉も、越後守護上杉房定が幕府管領細川政元との仲介に立つことで進展し、文明14年11月27日(1483年1月6日)に古河公方と幕府の和睦が成立した。これを「都鄙合体(とひがったい)」)と呼ぶ。この結果、堀越公方足利政知は伊豆1国のみを支配することとなり、政治的には成氏の鎌倉公方の地位があらためて幕府に承認されたと考えられる。
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