享受者層をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/28 09:21 UTC 版)
「清水寺参詣曼荼羅」の記事における「享受者層をめぐって」の解説
参詣曼荼羅において、主役となる人物を見出すことは享受した階層を知る手がかりとなる。参詣曼荼羅を鑑賞する人々にとっても、図中に自己を投影できる人物像は実際に参詣しているかのような感覚を与えるものであっただろうし、絵説く側や作成する側もそうした効果を狙ったと推測できる。そうした観点で図中を改めて見ると、肩衣袴を身に着けた武家姿で描かれた人物像が目立つことに気付く。清水寺参詣曼荼羅と同系統と推定されている他の参詣曼荼羅と比較してみると、武家姿で描かれた人物の比率が目立って高く、東山の寺社を描いた他の参詣曼荼羅と見比べても武家姿の人物はやはり多い。 こうした享受者層をめぐる問題は、前述の人物不在の貴紳向け茶屋が手がかりとなると考えられている。同時代の風俗絵との比較からすると、清水寺の門前には、遊女あるいは陰間のいた茶屋が門前にあった可能性があるが、人物は不在である。というのも、西山克が言うように、参詣曼荼羅は理想としての霊場の表現であり、一時のことであろうとも「聖性の堕落」のモチーフが描かれることはない。清水寺参詣曼荼羅において、霞の堆積により鳥辺野が隠されているが、人物不在の茶屋と同様、「聖性の堕落」を描くことを回避するためと推測されている。 その一方で茶屋の室内に道具が描かれていることについては、日本美術上の留守文様あるいは書斎図と呼ばれる技法との関連するとの指摘がある。留守文様は、主題となるべき人物を描くことなく、画中にちりばめられたモノから人物を想像させる技法である。この技法で描かれた対象を理解できるかどうかは、鑑賞者の知識教養の有無によって左右され、その意味で鑑賞者を選別する。書斎図もまた、消極的で具象性を欠いた描写により、鑑賞者に自由な理解を可能にする技法である。こうした技法の適用として見るとき、茶屋の人物の不在は、鑑賞者を選別する一方で、絵解きとともに鑑賞するものの自由な理解を可能にし、自身のあるいは他者の遊興を想像させるものであったのだろう。茶屋の内部に描かれた道具類が貴紳の遊興と結びついたものであること、あるいは本願成就院による勧進活動が幕府のみならず朝廷の権威をも利用し、有力者との強いつながりをもったものであったことを考えあわせるとき、清水寺参詣曼荼羅の人物描写は、あからさまに武家を含む有力者を対象とするのではなく、一見穏やかな表現のなかに、公武の上層階級を勧進の対象としようとする、作成主体の確固たる意図を示すものであろう。 参詣曼荼羅の享受者層は、図中の素朴な描写法のゆえに庶民であると考えられてきたが、そのことを明確に示す史料は欠けており、享受者層をただちに庶民のみに限定することはできない。こうした図像のあり方は、各寺社がそれぞれの経済状況や勧進活動のあり方を前提とした多様かつ個別の制作事情によって、参詣曼荼羅を作成していたことを示唆している。
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