予定地の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 22:48 UTC 版)
「福島第一原子力発電所の用地取得」の記事における「予定地の由来」の解説
「双葉町#歴史」および「大熊町#歴史」も参照 かつての双葉郡熊町村(1954年に大野村と合併して大熊町)大字夫沢字長者ヵ原付近の高さ30m余りの海岸段丘上に広がる約3,000haが1939年(昭和14年)6月に買収され、民家11軒の移転の上で1940年(昭和15年)4月、熊谷陸軍飛行学校磐城分校を設置するための飛行場の建設が始まった。スコップを使って人力で整地していったため、請負業者の作業人夫の他に、双葉郡内外の青年団・消防団・愛国婦人会・学徒などを半ば強制的に勤労奉仕させる人海戦術によって工事が進められた。 1941年(昭和16年)4月に滑走帯が完成し、帝国陸軍の磐城飛行場(長者ヶ原陸軍飛行場)となった。1942年(昭和17年)春に宇都宮陸軍飛行学校磐城分校が発足し、1945年(昭和20年)2月に磐城飛行場特別攻撃教育隊として独立した。同年8月9日および10日に米軍の航空母艦艦載機による空襲を受けた。 終戦後、一部が農地として開拓された。1948年(昭和23年)、中央部以北が民間の国土計画興業(株)に払い下げられて天日式の塩田として使用、国鉄常磐線・長塚駅(現・JR常磐線・双葉駅)までパイプで送出して製品化した(1959年に操業停止)。また1948年(昭和23年)には塩田以外の土地も旧地主に払い下げられ、1950年(昭和25年)に植林がなされた。 1962年(昭和37年)、東京電力が当地を原子力発電所の建設候補地とし、1964年(昭和39年)に入ると用地買収交渉が開始された。沖合い800mに防波堤を建設して冷却用の海水を取水する計画となっていたため漁業権、更には予定地に存在する鉱業権などについても取得の必要があった。 1966年(昭和41年)着工。工事に際して国道6号から発電所までのアクセス道も当時の国道並に拡幅された。 なお1988年(昭和63年)、当地の経緯を記した「磐城飛行場跡記念碑」が兵舎の跡地される展望台に建立されたが、福島第一原子力発電所事故の発生により、汚染水タンク群の「G5エリア」の南側のり面の下に移設された。
※この「予定地の由来」の解説は、「福島第一原子力発電所の用地取得」の解説の一部です。
「予定地の由来」を含む「福島第一原子力発電所の用地取得」の記事については、「福島第一原子力発電所の用地取得」の概要を参照ください。
- 予定地の由来のページへのリンク