九十九曲峠越え説と韮ケ峠越え説の伝承
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「脱藩道」の記事における「九十九曲峠越え説と韮ケ峠越え説の伝承」の解説
「九十九曲(くじゅうくまがり)峠」とは、梼原町と西予市城川町との境界に ある峠で、昭和50年代まで、龍馬はこの峠を越えて脱藩したものと見られていた。その説が生まれたきっかけは、その峠とその上り口にあたる宮野々番所跡に旧梼原村が1935年、建立した碑にある。峠の碑面には「勤王の志士 脱藩遺跡」と刻字されており、番所跡の碑には「土佐勤王烈士十二人前後 此ノ関門ヲ脱出シ皆難ニ殉ス」と刻字され、その下には12人の志士の名前が列挙されているのであるが、最初に龍馬の名を挙げているのである。つまり、龍馬も他の志士同様、この宮野々番所を破って九十九曲峠を越え、脱藩したものとみなしているのである。これらの碑の建立に尽力したのが、土佐勤王党員であった田中光顕であるだけに、誰もその碑文の内容に疑いを持たなかったのである。 この峠道における、一般に知られている龍馬の伝承は、峠から愛媛県側に下った所にある「龍馬の小便杉」くらいである。龍馬が休止した際、道沿いの杉の木に小便をかけたというのである。 現在主流となっている韮ケ峠越え説は1988年11月、愛媛県在住の歴史研究家、村上恒夫が各マスコミに発表した説で、峠の位置やルートは九十九曲峠説ルートよりも北になる。その発表は古記録の写しを元に行ったのであるが、その写しとは、1873年11月15日、龍馬の義兄にあたる高松順蔵(小埜)が、龍馬の脱藩時、同行した澤村惣乃丞からの口述筆記による文書(「覚書・関雄之助口述之事」)を写し取ったものである。これには龍馬が脱藩した際のルート上の目ぼしい地名が、梼原町四満(万)川から防府市三田尻まで記されているのである。 これを元に村上恒夫は愛媛県内の脱藩道を明らかにしたが、高知県内については、梼原町の有志や教育委員会が地元の町の脱藩道を調査し、後に龍馬会を設立して地域振興に寄与した。他の地区では、津野町の布施坂や朽木峠等の一部の古道が判明したのみであった。それらも含めた全ての地区の脱藩道を明らかにしたのが、春野公麻呂著の『龍馬が辿った道』(105–146頁参照)であるが、高知県日高村の日下大橋番所手前から佐川町斗賀野までの区間は、一般的な佐川説とは若干異なる部分がある。 更にこの韮ケ峠越え説には、非常に具体的な伝承がある。韮ケ峠に到るまでの間にある松ケ峠(まつがとう)番所を龍馬が脱藩時に通過した際、「坂本龍馬、まかり通る」と言って、堂々と番人の前を過ぎ去った、という伝承である。この伝承については、現地の説明板にも記述されているくらい有名であるが、前述の『龍馬が辿った道』(236–237頁参照)には、その時、龍馬を番所まで案内した人物の名や年齢、居住地までも記述されている。同書では、脱藩時になぜこのような大胆な態度を龍馬が取ることができたのか、ということについて、土佐勤王党員である藩の監察吏、曽和伝左衛門が、吉村虎太郎の脱藩時と同様に通行手形を融通したためではないかと記述している。 なお、龍馬の脱藩道を紹介した一般的な雑誌やガイド書では、1990年代後半に刊行された「龍馬脱藩ゆかりの道関連市町村協議会」編著の冊子『龍馬脱藩・ゆかりの道』を参考にするケースがほとんどであるが、この冊子でも佐川町の一部を遠回りのルートにしている。これは編者である協議会が、各自治体の観光部署で構成されていることが影響しており、佐川の観光名所が集中する町の中心部に、龍馬ファンをいざなおうとする意図が見て取れる。[要出典] 本来のルートは土佐市谷地(やつじ)から佐川町永野に入ると、町の中心部には向かわず、そのまま南西の斗賀野に進んでいる。これは明治期に作成された陸軍陸地測量部の地形図に記載されている道を見ても明らかである。その永野-斗賀野直通の道は1900年、佐川町会において、郡道として改修することを高岡郡長に請願していることからしても、藩政期から主要道であったことが分かる。 また、同冊子は前述の四説、全てのルートを掲載してはいるが、須崎廻り説については、中村街道を載せず、高知市から須崎市までを佐川説と共用のコースにしているため、中村街道を辿る場合よりも更に遠回りになっている。
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