丸三商店の失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 16:20 UTC 版)
1898年(明治31年)9月24日、三井財閥系の製紙会社王子製紙の取締役に選任された。遊んでばかりいるのを心配した親戚の中上川彦次郎による斡旋であった。続いて1899年(明治32年)、健康が回復したということで独立した商売人を志して貿易商「丸三商店」(「丸三商会」とも)を旗揚げした。本店を東京の三十間堀に構え、北海道産の鉄道枕木やその他国内からの一般雑貨を中国北部へ輸出するということで小樽と神戸に支店を配し、後に中国大連にも支店を設けるという陣容であった。このうち神戸支店長には日本銀行に入れていた後輩の松永安左エ門を1年で辞職させて登用している。店の支配人は慶應義塾元幹事の益田という人物で、松永曰く、桃介が諭吉のへそくりをいくらか借りたので財務監督のために送り込まれたらしいという。 丸三商店では中上川が経営し他に友人も多数在籍する三井銀行と金融の取引をしていた。しかし途中で方針が変わった模様で融資を断るようになる。後年に桃介が聞いたところによると、これは貸付課長の村上定が取引先の返済能力を調査する試験を始めたためだという。加えて同時期、慶應義塾の先輩である森下岩楠が経営する東京興信所が、丸三商店の取引先からの問い合わせに対し福澤桃介の信用は絶無、資産は僅少である旨を報告した。興信所の報告によって取引先が離れ、銀行からの融資も断られた丸三商店は早々に行き詰ってしまう。諭吉にも「眼玉の飛出るほど」叱られたという。この失敗で興奮したためか病気が再発し、神戸に出張する途中で倒れて京都の同志社病院に一時期入院した。 丸三商店の失敗を機に桃介は自分をいじめた者には強く当たろうと決心し、慶應義塾は敵であるとすら考えたという。また松永が神戸から病院に急行すると、桃介は福澤家の養子を今日限りで止めて旧の岩崎姓に戻ると言って聞かなかったとのことである。帰京すると三田の旧宅に留まるのが面白くないということで大森の田圃の中にあった一軒家を借り、静養も兼ねて謹慎の日々を送る。王子製紙取締役についても、三井財閥との関わりが深い井上馨と反りが合わず、1900年7月19日付で辞任した。丸三商店の事後処理は神戸の松永に任せていたが、そのうちに松永は手持ちの資金をほとんど失い、大森から引っ越していた築地の桃介宅に転がり込んできた。しばらく松永は桃介家の食客となり子供の世話までしたという。 1901年(明治34年)2月3日、義父の福澤諭吉が死去した。この5か月後の同年7月5日付で、北炭の常務・井上角五郎に誘われて同社に復帰し、元の重役付支配人待遇として勤め始めた。以後1906年(明治39年)10月15日付で辞職しサラリーマン生活を終えるまでの5年半にわたり在籍している。この間、北炭の外債発行に関係した。また松永の方も桃介から渡された少額の資金を元手に神戸で「福松商会」を旗揚げし、九州や北炭の石炭を関西地方へと販売する石炭商として成功を収めた。
※この「丸三商店の失敗」の解説は、「福澤桃介」の解説の一部です。
「丸三商店の失敗」を含む「福澤桃介」の記事については、「福澤桃介」の概要を参照ください。
- 丸三商店の失敗のページへのリンク