中里恒子の草稿について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 09:43 UTC 版)
『乙女の港』は川端康成の単独作として発表された作品だが、新版『川端康成全集 補巻2』で発表された中里恒子との往復書簡で、中里の草稿に川端が校閲・加筆指導・手直しをして完成させていたことが示唆されており、中里の才能を早くから認めて「執筆指導」していた川端と、中里が川端に全幅の信頼を寄せて「下書き」をしていたことが窺われ、共同執筆の合作だったことが今日判明している。問題となっている川端と中里の書簡のやり取りは以下のようになっている。なお、中里の草稿の一部は死後の1989年(平成元年)に見つかっている(神奈川県近代文学館所蔵)。 1937年(昭和12年)9月14日付、川端康成から中里恒子へ 乙女の港はだんだん文章が粗くなり、書き直すのがむつかしく、書き直すといふことは、うまく参りませんゆゑ、なるべく初めの調子でやつていただくと助かります。お書きになるのにもし興が薄れてゆくやうでしたら、早く切り上げ、別のものをまた連載するやうにしても、こちらは結構ですが、受けてゐる様子ゆゑ、なるべく続けていただきたいと思つて居ります。三千子は港に帰つて、洋子の心の戻るのに少し曲折あり、この三角関係少しモメタ方が、つなぎやすいかと思ひますがいかがですか。克子の天下あつてもよいかと思ひます。 — 川端康成より 1937年(昭和12年)9月18日付、中里恒子から川端康成へ 乙女の港お言ば通り注意いたしませう。どんな風に書いても、うまくなほして下さる こんなわがままな考へ方が私にあるからかもしれません。一回分終り 二回めの十枚まですすみましたがお手紙拝見してなほすつもりになりました。廿二日頃まで――もし間にあはねば一回分だけお送りいたします。 — 佐藤恒子(中里恒子)より 1937年(昭和12年)10月16日付、川端康成から中里恒子へ 軽井沢が二度続き、話の進みもヤマも前と余り変りませんので、少し工夫して、大分書き変えました。戦争は入れないこととし、戦前のつもりにしたいと思ひますがいかがですか。最初のやうな調子でなるべく願ひます。 — 川端康成より 1938年(昭和13年)9月17日付、中里恒子から川端康成へ けふ少女之友買ひ、花日記にかかります。これは自分でも書いてゐてたのしみです。勿論虚構の人物ですけれどもその人物に私の思つてゐることをみんなさせてゐるせいかもしれません。 — 佐藤恒子(中里恒子)より こういった経緯のある『乙女の港』について、川端が筋を指示して中里が書き、川端が徹底的に手を入れている作品であるから中里の代作ではないとする内田静江のような意見に対して、小谷野敦は、筋立てが中里のものだと推測して、中里恒子作と表記すべきだと主張し、川端作として刊行する出版社を批判している。 下條正純は、これらの資料からは、どの程度が中里の筆によるのかは不明であるが、中里が横浜市のミッションスクール・横浜紅蘭女学校の卒業生であることから、中里自身の体験に基づく女学生文化や女学生の言語を下敷きにした描写がなされていると推測している。 この件を本格的に研究している中嶋展子は、発見された中里の草稿や、二人の書簡のやり取りを分析し、そこには、川端の新人作家を導くという師弟関係にも似た交流に支えられた作品の成立過程が見られるとし、『乙女の港』は中里による下書きがあって成立した作品ではあるが、川端の改稿により文章表現が改善され、作品に「広がりや彩り」が添えられて、テーマも明確となった作品であり、そういった文章の方法が、草稿のやり取りから見て取れると解説している。 同じく本格的にこの件を研究している大森郁之助は、この書簡の一つ前段階として川端が中里へ腹案(あらすじの展開、場面の構成など)が伝えられていたか否かは不明であると前置きした上で、川端の様々な作品で女性の同性愛への文学的な嗜好が垣間見えることから、『乙女の港』の同性愛モチーフが「川端の発案」だった可能性も考えられるとしている。その根拠として大森は、中里作が濃厚な『花日記』の方が同性愛の完成度が低く、川端が改稿した『乙女の港』や、完全な川端本人作である『美しい旅』の方が、より同性愛要素が高いことと、『乙女の港』の第6章の軽井沢の部分は川端の加筆であることが馬場重行によって示唆されていることなどから、最終的には全体として川端が自作視得るものになっていたと考察している。 孫昊は文章のパターンから共同執筆と結論を出している。
※この「中里恒子の草稿について」の解説は、「乙女の港」の解説の一部です。
「中里恒子の草稿について」を含む「乙女の港」の記事については、「乙女の港」の概要を参照ください。
- 中里恒子の草稿についてのページへのリンク