中華の概念の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 12:39 UTC 版)
中華の概念は前漢の武帝(紀元前159-前87)の野心に起因している。[疑問点 – ノート]武帝の時代に官学に立てられた儒教は、天命によって天から選ばれた天子(皇帝または王)を頂点とした徹底した序列による秩序を唱えており、さらに「九州の外、之(これ)を蕃国と謂う」として、中国本土以外の非儒教圏を蕃(野蛮、未開)とし、悪としてきた。こうした考え方をさらに選民思想へと発展させることにより『中華』(「華の内側で文明圏を意味する」)と『夷狄』(「華の外で蛮地を意味する」)とに分ける考え方が生まれ、周辺民族(非支配地域、非儒教圏)を蕃(蛮、夷狄)として扱うことにより、数々の侵略や恐喝、それにともなう戦争殺害などあらゆる行為を肯定した[要検証 – ノート] [信頼性要検証]。 また武帝(前漢)は東北地域の領土獲得(楽浪郡などの4郡)により、始めて朝鮮半島に暮らす民族と遭遇するが、彼らを『穢』(わい:穢れ、汚いに近い意味)や『貊』(ばく:獣に近い意味)と名づけて蔑視したことも、儒教(中華)の一面性を現している。[要検証 – ノート] その後、前漢は武帝の度重なる遠征と「塩」や「鉄」の専売制度(前119年)などによって[疑問点 – ノート]急速に衰え、さらに後漢末期になると周辺民族(夷狄側からの)の侵犯と略奪が繰り返されるようになり、三国時代から西晋を経て五胡十六国時代に入ると、異民族側(羌、匈奴、鮮卑など)の侵略(または領地の奪回)が顕著になり、その支配が乱立し、やがて仏教を国教とした鮮卑族の王朝である隋、それに続く唐による再統一の過程で、旧来の漢民族の概念は消滅して儒教(中華)は衰退した[信頼性要検証]。 『中華』が叫ばれだしたのは漢民族の王朝とされる宋時代(960-1279)に入ってからであり[疑問点 – ノート]、その代表的なものが司馬光の『資治通鑑』(1084年)である。背景には儒教の一派である宋学の存在と、[疑問点 – ノート]宋のおかれた屈辱的な歴史がある。宋は新興勢力の契丹族の遼に苦しめられたすえに澶淵の盟(1004年)により、朝貢することを誓って従属関係となり(毎年、十万両の銀と二十万匹の絹を貢ぐ)、この結果として異民族王朝である遼を正統な王朝(皇帝)として認めなければならなくなった(第二次南北朝時代)。その後、さらに女真族の金によって都の開封(1126年)を追われてしまう。こうした悲惨な実情と選民的な儒教思想とのギャップとに苦しめられた宋の人々は、新しい儒教である朱子学(宋学)を創りだし、『中華』『夷狄』『尊王』『攘夷』といった言葉を使って、現実的でない解釈で善悪を決めたり、現実的でない正統性の有無によって、自らの優位性や支配を肯定したりする必要があった。 『資治通鑑』は、中華である宋には支配する正統な権利があると主張する一方、遼は夷狄であるとしてその支配を否定した。 その後、金、宋(南宋)とを滅ぼしたモンゴル民族の王朝である『元』も自らを中華とし、皇帝による支配に都合のよい朱子学を体系化して利用した(例えば元の科挙は朱子学によるべきとされ、その後の王朝もこの前例を踏襲した)。その後の王朝、南方から進出してきた明や、満洲人(女真族)の清も中華を称し、既に(元王朝によって)制度化されていた朱子学をそのまま国教(及び『官学』)として採用したため、明・清に従属して自らも朱子学を国教とした朝鮮(李氏朝鮮)を含め、中華の言葉や選民思想的な概念は現在に残った。
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