中日入団から現役引退まで
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その後、「自分の力を日本で試してみたい」と日本球界入りの意向を表明。韓国プロ野球から日本球界への来日移籍選手第一号となった。巨人と中日との大争奪戦になり、一時は巨人入団が事実上決定しあとは契約を結ぶだけと報じられたが、その後中日がこれを上回るとされる条件(譲渡金3億円、年俸1.5億円×2年)を提示して攻勢をかけた 末、一転して中日入りが決定(これが「大逆転」と報じられた)。1995年オフに中日ドラゴンズに入団。 1996年4月5日の広島との開幕戦で1点リードの9回裏に来日初登板を果たすが、ルイス・ロペスに同点打を浴び、いきなりセーブ失敗。4月16日の対巨人戦では3点リードの8回裏に登板するも、3番・シェーン・マックと5番・落合博満に本塁打を浴びてセーブ失敗(ただし、直後の9回表に打線が勝ち越したために来日初勝利をあげている)。このように、何としても結果を残さなければならないというプレッシャーから、ムキになって甘く入ったボールを痛打されるというパターンの繰り返しで、2軍落ちも味わうなど来日1年目は期待外れの結果に終わった。 しかし、オフ返上など背水の陣で臨んだ2年目の1997年に大変身。狭いナゴヤ球場から広いナゴヤドームに移ったことで「インコースに思いっきりいける」投球が嵌り、抑えの切り札としてセーブを積み上げていった。同年のオールスターゲームに出場。同年は当時の日本記録となる38セーブを挙げ、佐々木主浩(横浜)と共に最多セーブ投手 に輝く。同年に宣が記録した38セーブの1個目は、横浜との開幕戦で、ナゴヤドーム初の公式戦。ナゴヤドームで初めてセーブを記録した投手である。この年はチームが最下位と低迷する中、最多勝を獲得した山本昌とともに奮闘した。 1998年、前年はチームが低迷したがこの年は横浜との熾烈な優勝争いを繰り広げ、宣もストッパーとしてこの年二桁セーブを挙げた投手の中では唯一0敗で投げぬきチーム2位に貢献した。 1999年、開幕二戦目9回に登板した際にふくらはぎの違和感で緊急降板するなど高齢や勤続疲労によるコンディション不良が重なり、6月に3連続で救援失敗し再調整で二軍落ちした。その間は岩瀬・サムソン・落合と日替わりストッパー等でやりくりしている。復帰後は首脳陣の図らいから最後の1アウトや2アウトでの登板で調子を盛り返し、この年も抑えの切り札として28セーブを挙げ中日の11年ぶりのリーグ優勝に貢献した。しかし結局はこのコンディション不良により全般的に安定感が薄らいだ事などから、この年のシーズン限りでの現役引退を表明。シーズン終了後の11月22日に行われた引退会見では、3連続で救援失敗した6月の時点で引退を申し入れたものの、当時の監督であった星野仙一から慰留されていた事や、一方で年齢による衰えで抑え役から中継ぎに回っても名誉を守ることができると考え選手兼任コーチとして契約する球団側の提案も打診されたが、選手生活の為に来日した事を理由に自ら固辞したことも明らかにしており、「それを乗り越えて優勝に貢献できたが、この辺でやめた方がファンにいいイメージを残したまま選手生活を終えられると決意した」と語っている。中日のリーグ優勝の際に胴上げ投手となり、ダイエーとの日本シリーズ第4戦でも登板するなど、華々しい引退となった。
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