中国での賛否
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 01:03 UTC 版)
これら和製漢語の語彙は明治維新以後、中国人留学生らによって中国へ逆輸出された。「社会主義」「共産党」「幹部」などの常用語を筆頭に800語を超えるという。日本人が作った漢語がこのようにして中国語に大量移入した事実について、中国人のなかには、そのまま受け容れる者もいれば、強烈な抵抗を訴える者もあった[要出典]。 著名な受容派としては、梁啓超、孫文、魯迅、毛沢東が知られている。現在[いつ?]の中国語に多くの和製漢語が使われるようになり、その端緒を開いたのは梁啓超であったといわれる。魯迅は自著で「万年筆」など和製漢語を多用したほか、日本語の「紹介」「写真」も頻繁に用いた。毛沢東は「整風運動」といった共産党の作風を改善する運動を喚起した際、文書の表現を豊かにするためには外国語から学ぶことが重要であると呼び掛けた。演説中で言及した学ぶ外国語の例は、「幹部」という和製漢語であった。 翻訳家の厳復は、和製漢語の一部を受け入れて良いが、主に中国の古典の書物から新語に相応する訳語を見つけるべきと提唱した。たとえば「経済学」を「計学」、「物理学」を「格致学」、「社会学」を「群学」、「形而上学」を「玄学」と主張した。また、当時、日本に留学していた留学生の彭文祖は強烈な反対派であった。彭は1915年『めくらがめくら馬に乗る新語論』(中国語名:盲人瞎馬新名詞)という書籍のなかで、支那、取締、取消、引渡、手続、目的、宗旨、権利、義務、代価、法人、当事者、第三者、強制執行、親属、継承、文憑、盲従、同化、場合、衛生など59個の新語を「きてれつな」と定義した。中国人がこのような新語を援用することは「恥知らずな行為だ」、日本からの新語の導入は「亡国滅族」だと罵った。
※この「中国での賛否」の解説は、「和製漢語」の解説の一部です。
「中国での賛否」を含む「和製漢語」の記事については、「和製漢語」の概要を参照ください。
- 中国での賛否のページへのリンク