中国での開業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 23:10 UTC 版)
その後も唯は、病気に苦しむ人々を、より多く救うことを望み、その道を求めて北里柴三郎の元を訪れた。北里は唯に、満州の目に余る医療事情を教えて、「ドクトルの称号を得た君は、この日本に留まらず、本当に君を必要としている地で力を振るうべき」と強く説いた。同1907年、唯は新天地を中国に求めて、夫と中国大陸に渡り、天津租界(外国人居留地)に総合病院「同仁病院」を開業した。「同仁」は「広く平等に愛する」の意味での命名である。 同仁病院は、当時としては珍しい鉄筋コンクリートの3階建てで、入院部屋は15室あった。唯はこの病院の院長として、同郷の看護婦たち、数人の代診や助産婦たちとと共に診察にあたっており、加えて中国人の給仕たちや車夫も雇う大所帯であった。夫の常三郎は1階で、薬局と印刷所を経営する、多角経営の病院であった。唯はドイツのマールブルク大で医学部のあらゆる授業を受けたことが功を奏して、専門である眼科のみならず、産婦人科、内科、小児科の診療も請け負った。汽車に乗って、1日がかりで往診する日もあった。 当時の天津は、中国やヨーロッパなど、各国から訪れているものが多く、病院の患者も様々であった。診療では、通訳を雇わず、かつて学んだ英語とドイツ語、そして新たに習得した中国語を駆使していた。通訳を経ずに直接話すことで、唯は患者と心を通い合わせることができた。あるときには、相手がハンカチで口を塞いでうつむいているので、事情を尋ねると「ニンニクを食べたのでにおいがする」と言うので、唯は「私は中国人と仲良くするためにここに来ました。中国流を学ぶために、私もニンニクを食べなければなりません」と笑顔で返した。 同仁病院は約30年にわたって順調であったが、1930年代には満州事変、第一次上海事変と、相次ぐ日中の衝突の勃発に伴って、日本人である唯の立場は次第に悪化した。同仁病院も一部が、天津に駐留していた日本軍に接収された。唯はそれでも夜間の往診で、中国人の車夫に人力車を引かせて、平気で外出していた。中国の兵士に取り囲まれて、銃を突きつけられることもあったが、同行の看護婦が言葉を失う中、唯は怯まずに中国語で「誰誰の往診へ行くところです」と即答して切り抜けた。 満州事変勃発の翌年の1932年(昭和7年)、糖尿病を患っていた夫の中村常三郎が急逝した。唯は、医師として多忙のために満足に夫を看護できず、体調の急変にも気付けなかったことを深く後悔した。苦しむ患者を救うことを己の使命としていた医師としての生涯で唯一、このときだけは、医師となったことを後悔した。友人に「辞めようかと思った」とも話したものの、自らの使命を医師と信じ、その道を貫き通して、満州事変が激しさを増すまで、天津で医師として働き続けた。しかし日中関係の悪化に拍車がかかったことで、同仁病院は閉鎖を強いられた。
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