中国での経験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 14:05 UTC 版)
「ウィリアム・ヒントン」の記事における「中国での経験」の解説
ヒントンは1937年に初めて中国を訪れた。当時のアメリカでは、1920年代以降の中国共産党に対する見方が、不安と敵意の間を行き来していた。アメリカで共産主義の「専門家」と称する人の多くは、マルクス・レーニン主義の政党がアジアの農民に受け入れられていることに戸惑いを覚えていた。外交官の中には、中国共産党を「革命家を自称する農地改革派」と見なす者もいた。また、中国共産党がソ連とどの程度結びついているのかも分からなかった。 フランクリン・D・ルーズベルト大統領や、ヘンリー・ルースの『タイム』誌をはじめとするメディアが国民党に注目していたこともあり、中国で共産党が重要な位置を占めるようになっても、アメリカの一般市民の関心は薄かった。第二次世界大戦でアメリカが中華民国や他の連合国と一緒に対日戦争に参戦したとき、国民党率いる対日連合戦線が共産党と暗黙の同盟を結んでいたにもかかわらず、アメリカの外交官には共産党との接点がほとんどなかったのである。 ヒントンが初めて中国を訪れた1930年代半ば、エドガー・スノー、ヘレン・フォスター・スノー、オーウェン・ラティモアなどの数少ないアメリカ人ジャーナリストが、国民党の封鎖をかいくぐって共産党の支配地内に潜入していた。彼らは皆、自分たちが目にした共産党の高い士気、社会改革、対日戦争への貢献を称賛した。 その後、1945年から1953年にかけて中国に滞在した。アメリカの戦時情報局の職員だったヒントンは、重慶で行われた国民党と共産党の和平会談に出席し、周恩来や毛沢東に会っている。その後、山西省南東部の解放区である長治市近郊の大学に英語教師として赴任した。 その後、国連のトラクター技術者として、中国の農村で近代的な農法の研修を行った。1948年にヒントンが働いていた省を共産党が解放したとき、彼は大学に所属する農地改革作業チームへの参加を希望し、長治市郊外の張庄村に移った。同年、当時の妻であるバーサ・スネック(英語版)と中国で合流した。 ヒントンは8か月間、畑仕事に従事しつつ、農地改革の会議に出席し、そのプロセスを丹念にメモした。農業の機械化や教育の発展を支援し、主に共産党が支配する中国北部・長治市の村に滞在して住民との親交を深めた。ヒントンは、識字率の向上、封建制度の解体、女性の平等性の確保、村を治めていた清朝時代からの地主制度を評議会に置き換えるなど、共産党の取り組みを地元の人々に紹介した。ヒントンは中国滞在中に千ページ以上のメモを取ったという。
※この「中国での経験」の解説は、「ウィリアム・ヒントン」の解説の一部です。
「中国での経験」を含む「ウィリアム・ヒントン」の記事については、「ウィリアム・ヒントン」の概要を参照ください。
- 中国での経験のページへのリンク