両親、弟、親戚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:36 UTC 版)
母シグネと父ヴィクトルが出会ったきっかけは、グランド・ショミエール芸術学校への留学だった。シグネはスウェーデンのストックホルム出身であり、フィンランドに移住してヴィクトルとの生活を選んだ。シグネは自らを婦人参政権論者と呼び、ヴィクトルは一族の反対を押し切って芸術家の道を選んでおり、2人とも伝統とは異なる価値観を持っていた。 画家でデザイナーのシグネは、トーベにとって最初に絵を教わった人物でもあった。トーベはシグネから勤勉さも学んだ。シグネはフィンランド銀行の紙幣の絵を描き、切手デザイナーとしても活動した。本の装丁では自分の手がけた本が同時に並ぶことを意識して、それぞれ画風を変えていた。挿絵では『ガルム』誌に創刊から関わり、『ガルム』の仕事はトーベに引き継がれていった。他方で女性の芸術家は夫の陰にかくれて評価されない風潮にあり、常に父の要求に従う母を見て、トーベは女性の社会的な立場について考えるようになった。シグネはムーミンママのモデルともいわれている。 彫刻家のヴィクトルは、線が柔らかい女性像や、繊細な子供像を多く制作した。トーベをモデルにした彫刻作品も何点か制作している。ヴィクトルはフィンランド内戦の経験でふさぎがちになり、シグネは夫について「戦争で壊れてしまった」とも表現していたという。内戦で政府側の白衛隊(フィンランド語版)に属したことが影響し、親ドイツ的でユダヤ人を嫌っていた。政治についてトーベはヴィクトルと意見が合わず、関係を修復するのは戦後となった。トーベによれば、ヴィクトルは悲観的な性格だったが、嵐が近づくと別人のように好奇心旺盛で面白くなり、子供を連れて冒険に出かけたという。ヴィクトルの作品は、エスプラナーディ公園(英語版)やカイサニエミ公園(英語版)に展示されており、トーベの墓石にもヴィクトルの彫刻が使われている。 トーベは長女であり、弟のペル・ウーロフ・ヤンソンとラルス・ヤンソンがいた。ペール・ウロフは短編小説集『若き男、ひとり歩く』(1945年)でデビューしたのちに写真家となった。写真絵本『ムーミンやしきはひみつのにおい』(1980年)では、ペール・ウロフが撮影したムーミン屋敷の写真が使われている。ペール・ウロフによれば、トーベはスポーツ選手のような体格で良い被写体だったが、写真に撮られることがとても苦手だった。 末弟のラルスは15歳で冒険物語『トルトゥガの宝』(1941年)を発表して好評となり、『支配者』(1945年)や『我は我が不安なり』(1950年)など執筆を続けつつ、1940年代はトーベと『ガルム』誌で共作をした。ラルスはムーミン・コミックスの連載当初からトーベを手伝っており、トーベが連載の重圧や他の活動との掛け持ちで悩んだために後任を希望した。ラルスは1960年から1975年まで1人で連載を続けた。ラルスの娘でトーベの姪にあたるソフィア・ヤンソンは、小説『少女ソフィアの夏』のモデルになっている。 叔父たちは冒険が好きで探検家気質の者が多く、子供時代のトーベに影響を与えた。ストックホルム工芸専門学校の生徒時代は、地元にいた叔父のウロフやエイナルのもとで暮らした。
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