両者の戦力
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「コンスタンティノープル包囲戦 (717年-718年)」の記事における「両者の戦力」の解説
アラブ人は当初から大きな規模によるコンスタンティノープルへの侵攻の準備を進めていた。8世紀後半にシリア語で書かれた『ズクニーン修道院年代記(英語版)』では、アラブ人は「数え切れないほど」いたと記録されている。一方、12世紀のシリアの年代記作家であるシリア人ミカエル(英語版)は、かなり誇張された数字として、200,000人の兵士と5,000隻の船という数字を挙げている。10世紀のアラブの作家であるマスウーディーは、120,000人の軍隊とテオファネスの説明にある1,800隻の船について言及している。数年分の物資が蓄えられ、攻城兵器と焼夷弾(ナフサ)が備蓄された。前線の軍隊への補給部隊だけでも12,000人の兵士、6,000頭のラクダ、そして6,000頭のロバがいたと言われている。さらに、13世紀の歴史家のバル・ヘブライオス(英語版)によれば、軍隊には聖戦(ジハード)のための30,000人の志願兵(ムタワ)が含まれていた。ビザンツ側の兵力は全く分かっていないものの、ビザンツ帝国の人的資源の枯渇と兵力を維持するための物資の制約の両方を考慮すると、コンスタンティノープルの守備兵は恐らく15,000人を超えていなかったと考えられている。 真の数字がどうであれ、攻撃側の兵力は防御側の兵力よりもかなり上回っていた。ウォーレン・トレッドゴールドによれば、アラブ軍の兵力は、ビザンツ帝国軍(英語版)全体の兵力を上回っていた可能性がある。アラブ軍の構成の詳細についてはほとんど分かっていないが、大部分はビザンツ帝国と戦った経験のある古参兵とウマイヤ朝政権の中核をなすシャームとジャズィーラ地方出身のアフル・アッ=シャーム(シリア人)の支配層から成り、これらの人々に統率されていたと考えられている。 戦役に参加したアラブ軍の指揮官のうち、マスラマ以外の指揮官の名前については各史料で異なった説明が見られる。テオファネスの説明では、マスラマの副将は艦隊を率いてキリキアで越冬したウマルとアモリオンにおいてレオンと取引したスライマーンの二人とされているが、後者のスライマーンについては「死亡してウマルに替わった」という記述がみられ、カリフのスライマーンおよびウマルと混同しているのは明らかである。ニケフォロスの説明にも同じ混同が見られ、ビザンツ側の史料では少なくとも三人の「スライマーン」を一人の人物として混同している。アラブ側の史料のうち、タバリーはウマル・ブン・フバイラ(英語版)(フバイラの息子ウマル)のみをマスラマの副将として言及しており、この人物がアモリオンを包囲したことになっている。『ウユーン』では、このウマル・ブン・フバイラに加えてスライマーン・ブン・ムアーズ・アル=アンタキーとアブドゥッラー・アル=バッタール(英語版)の名前が挙げられている。アガピオスのシリア語の史料では、ウマル・ブン・フバイラが艦隊を率い、スライマーン・ブン・ムアーズ・アル=アンタキーとバフターリー・ブン・アル=ハサンが陸側の軍隊を率いたとしている。 包囲戦ではウマイヤ朝の労働力と資源の大部分を消費したものの、包囲戦の期間中にアナトリア東部のビザンツ帝国の国境地帯へ攻撃に乗り出すことが依然として可能であった。717年にカリフのスライマーンの息子であるダーウードがメリテネ(現代のマラティヤ)に近い要塞を占領し、718年にはアムル・ブン・カイスが国境地帯を襲撃した。ビザンツ側の兵力は不明であるが、アナスタシオス2世による準備(廃位後に顧みられなかった可能性がある)を別とすれば、ビザンツ帝国はテオドシオス3世がアラブに対する同盟を盛り込んだ可能性がある条約(英語版)を締結したブルガリア帝国の援軍を見込むことが可能であった。
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