下里古墳とは? わかりやすく解説

下里古墳

名称: 下里古墳
ふりがな しもさとこふん
種別 史跡
種別2:
都道府県 和歌山県
市区町村 東牟婁郡那智勝浦町
管理団体
指定年月日 1976.02.24(昭和51.02.24)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: S50-12-041[[下里]しもさと]古墳.txt: 南紀那智勝浦町を南流する太田川左岸600メートルの地に形成され砂丘台地上に営まれ前方後円墳である。前方部西北太田川に向け、墳丘側面玉の浦にそわせている。墳丘前方部若干損じているが、旧規全長45メートル前後復原され、後円部は径22メートル、高さ2.5メートル測る後円部には段築はなく斜面全面河原石を葺石前方部続いている。墳丘四周には幅5メートル前後周濠がめぐり、濠底近くまで葺石がふき下ろされている。後円部中央には、主軸合致して竪穴式石室設けられている。全長5.35メートル内法4.75メートル、東壁幅0.95メートル西壁幅0.65メートルであり東被葬者考えられている。石室控え積み少なく、しかも西壁平面を丸味をもたせるなど特色ある形をもっている。副葬品には多くの鏡を出した伝えるが、碧玉製管玉(玉杖かとも考えられる)やガラス玉などのほか鉄剣刀子知られている。従来古墳存在を全く欠く紀南地方における唯一の古墳であるばかりでなく、古墳時代前期築かれ古墳である点においても重要な古墳といえるのである
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下里古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 22:44 UTC 版)

下里古墳

墳丘全景(左に後円部、右に前方部)
所在地 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町下里
位置 北緯33度35分3.18秒 東経135度55分21.76秒 / 北緯33.5842167度 東経135.9227111度 / 33.5842167; 135.9227111座標: 北緯33度35分3.18秒 東経135度55分21.76秒 / 北緯33.5842167度 東経135.9227111度 / 33.5842167; 135.9227111
形状 前方後円墳
規模 墳丘長40m
埋葬施設 竪穴式石室(内部に木棺か)
出土品 鏡(散逸)・玉類(散逸)・鉄製品・土器片
築造時期 4世紀末-5世紀初頭
史跡 国の史跡「下里古墳」
有形文化財 出土品(那智勝浦町指定文化財)
特記事項 本州最南端の前方後円墳
地図
下里古墳
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下里古墳(しもさとこふん)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町下里にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定され、出土品は那智勝浦町指定有形文化財に指定されている。

本州では最南端に位置する前方後円墳で、4世紀末-5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。

概要

和歌山県南部、太田川河口付近の左岸平地(築造当時は砂丘)に築造された古墳である[1][2][3][3][4]。かつて平安時代末期-明治期には前方部墳丘上に神社が鎮座したため、前方部上面は削平を受けている[5]。その後1929年昭和4年)に地元村民により発掘されたほか[1]、これまでに3次の発掘調査が実施されている[4]

墳形は前方部の未発達な柄鏡形の前方後円形で、墳丘主軸を東西方向として、前方部を西方に向ける[4]。墳丘に段築は認められない[2][3]。墳丘外表では葺石が認められるほか、墳丘周囲には幅約5メートルの周溝が巡らされる[4][3][5]。埋葬施設は竪穴式石室で、後円部墳頂において構築される[1]。石室主軸は墳丘主軸と平行の東西方向(東枕か)とし、長さ5.35メートル、内法4.75メートル、東壁幅0.95メートル、西壁幅0.65メートルを測るが[3]、天井石と北壁の大部分は破壊されている[1]。この石室内部に木棺が据えられたと推定され[4]、昭和期の乱掘および発掘調査で遺物の出土が知られる[4]

この下里古墳は、古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭頃の築造と推定される[5]。前方後円墳としては本州最南端に位置するとともに、紀伊半島南部では唯一の前方後円墳であるが、周辺に古墳時代の遺跡がほとんどないという点に謎を残しており[1]、文献に見える熊野国造と考え合わせて当時の紀伊半島南部の様相を明らかにするうえで重要視される古墳になる。

古墳域は1976年(昭和51年)に国の史跡に指定され[6][7]、出土品は2012年(平成24年)に那智勝浦町指定有形文化財に指定されている[7]

遺跡歴

  • 1929年昭和4年)、地元村民による発掘、副葬品出土(遺物は散逸)[1]
  • 1974年(昭和49年)、第1次発掘調査。後円部埋葬施設の調査で副葬品出土(1975年(昭和50年)に報告書刊行)[1][4]
  • 1976年(昭和51年)2月24日、国の史跡に指定[6][7]
  • 2000年平成12年)、第2次発掘調査。古墳全長の確定(2006年(平成18年)に報告)[4]
  • 2005年(平成17年)、第3次発掘調査[4]
  • 2012年(平成24年)2月23日、出土品が那智勝浦町指定有形文化財に指定[7]

墳丘

墳丘の規模は次の通り[4]

  • 古墳総長:約50メートル - 周濠を含めた全長。
  • 墳丘長:約40メートル
  • 後円部 直径:21.5メートル

出土品

碧玉製管玉・ガラス製小玉
(那智勝浦町指定文化財)
和歌山県立紀伊風土記の丘企画展示時に撮影。

1929年(昭和4年)の地元村民による発掘では、鏡(内行花文鏡という)・玉類が出土したというが、現在では遺物は散逸している[1]

1974年(昭和49年)の第1次調査における、竪穴式石室からの出土品は次の通り[4]

  • 碧玉製大型管玉 1点 - 玉杖の柄の一部か。
  • 碧玉製管玉 6点
  • ガラス小玉 56点
  • 鉄剣片 2点
  • 鉄刀子 1点
  • 用途不明土製品 1点 - 混入品の可能性あり。

また墳丘からは築造当時のものと見られる二重口縁壺のほか、縄文土器弥生土器平安時代の製塩土器が出土している[4]。特に二重口縁壺は東海地方の影響を受けた遺物になる[4]

2000年(平成12年)の第2次調査では、築造当時のものと見られる土師器甕のほか、平安時代-室町時代の遺物が出土している[4]

文化財

国の史跡

  • 下里古墳 - 1976年(昭和51年)2月24日指定[6]

那智勝浦町指定文化財

  • 有形文化財
    • 下里古墳出土品 一括(考古資料) - 2012年(平成24年)2月23日指定[7]

現地情報

所在地

交通アクセス

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 下里古墳(平凡社) 1983.
  2. ^ a b 下里古墳(古墳) 1989.
  3. ^ a b c d e f 下里古墳(国指定史跡).
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 佐々木宏治 2016.
  5. ^ a b c 史跡説明板。
  6. ^ a b c 下里古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  7. ^ a b c d e 文化財 (PDF) (那智勝浦町ホームページ)。

参考文献

(記事執筆に使用した文献)

関連文献

(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 『下里古墳発掘調査報告書(第1次)』那智勝浦町教育委員会、1975年。 
  • 土屋孝司「本州最南端の前方後円墳 下里古墳整備事業について」『地宝のひびき -第1回和歌山県文化財調査報告会-』財団法人和歌山県文化財センター、2006年。 

関連項目

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