下里知足
下里知足
(しもさとちそく)
鳴海(現在名古屋市緑区鳴海町)の門人。鳴海は東海道の宿場であった。下里<しもさと>知足は、千代倉という屋号の造り酒屋の当主で富豪であった。法名は寂照<じゃくしょう>。
『笈の小文』の旅の途次芭蕉はここに休息している。
彼に宛てた芭蕉の真蹟書簡6通がある
。なお、知足自筆の『知足斎日々記』延宝8年7月3日の条に、芭蕉宛に自著(『大柿鳴海桑名名古屋四ツ替り』)を送った記録があり、その自著内の句寄稿者蘭には松尾桃青の所在について江戸「小田原町小澤太郎兵衛店、松尾桃青」の記述があるので、これがこの時期の芭蕉の動静の貴重な記録となっている。
知足宛書簡1(貞亨3年閏3月16日)
知足宛書簡2(貞亨3年10月29日)
知足宛書簡3 (貞亨3年12月1日)
知足宛書簡4 (貞亨4年1月20日)
知足宛書簡5 (貞亨4年春)
知足宛書簡6 (貞亨4年11月24日)
下里知足
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/27 16:24 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動下里知足(しもざと ちそく、寛永17年11月18日(1640年12月30日)? - 宝永元年4月13日(1704年5月16日))は、江戸時代前期の俳人。通称は勘兵衛、のちに金右衛門。諱は吉親、法名は寂照。子に下郷蝶羽、下郷亀世らがいる。
尾張国鳴海村の庄屋をつとめる傍ら、井原西鶴や松尾芭蕉ら多くの俳人・文人と交流。鳴海六俳仙の一人。現存する西鶴の書翰7通のうちの4通は知足に宛てたものである。
著作
- 『千鳥掛』
- 『多日万久羅』
脚注
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参考文献
- 森川昭『下里知足の文事の研究 第一部 日記篇』(和泉書院、2013年)
- 森川昭『下里知足の文事の研究 第二部 日記篇、第三部 年表篇』(和泉書院、2015年)
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