上杉家との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:28 UTC 版)
上杉家(米沢藩)家臣たちからの評価も芳しくなかった。それは上杉家では義央の長男・三之助(後の上杉綱憲)が上杉家の養子となって以降、吉良家の買掛金や普請を負担し、支払うのことが多々あったためである。 延宝4年(1676年)に、吉良家が町方に未払いでためていた6000両を上杉家が上方からの借金で年1000両を支払い、6年間で返済。 天和元年(1681年)の6月20日付の須田右近書状に「上野介様の御身上はかねて御不如意に候いて、御迷惑なされ候、なかんずくこの頃は呉服所の伊兵衛と申す者が町奉行へ書付を指し上せ候……」とあるように、吉良家がためていた買掛金を一向に支払わないため、呉服所の伊兵衛が町奉行へ訴え出るということが起こり、訴え出た呉服所の伊兵衛を始めとして、さがみ屋又兵衛・薪屋庄兵衛などの町方・商人10人ほどにためていた吉良家の買掛金2780両を上杉家が肩代わりしたとされる。 元禄11年(1698年)には、勅額火事により鍜治橋にあった吉良邸が焼失したため、呉服橋に新邸を建てることとなり、その建設にかかった費用の2万5500両を上杉家が負担している。 これらに加えて、米沢藩の分限帳に、「一、五千石 御前様(義央の妻の富子) 一、千石 鍜治橋様(吉良義央)」とあるように、上杉家から吉良家に毎年6000石の援助を行っていた。確認できるのは寛文2年(1662年)から延宝4年(1676年)までなので、1石1両として、6000両ずつ13年間で累計7.8万両の計算。 なお、当時の上杉家の江戸家老の色部安長の知行(石高)は1666石。色部安長の前任で江戸家老を務めた千坂高房は1565石。上杉家で色部氏と共に最上位に遇され、米沢藩が削封されてから福島城代から代わって鮎貝城代(御役屋将)を命ぜられ、上杉家の軍大将(軍奉行)も兼ねた本庄政長は1666石だったので、当時の上杉家で最上位に位置していた、これら上士(上級藩士)の三家を合わせた石高よりも更に多い俸禄を上杉家は毎年、吉良家に仕送りしていたということになる。 上記のように、上杉家は吉良義央の長男を養子とすることで改易を免れたという立場上、そして義央の息子である上杉綱憲が藩主となったことなどから、所領が半減されるなどの苦しい藩財政にありながらも吉良家に対して何かと支援し、金銭を工面しなければならなかった。そのため、吉良家に対して、多額の肩代わり・資金援助を行わなければならなかった当時の上杉家の江戸勘定方、須田右近は国元の米沢藩にあてた書状の中で「当方もやがて吉良家同然にならん」と書き残している。また、それらに加え、経済的に逼迫していた上杉家では、天和3年(1683年)4月に、将軍家へ「倹約」を正式に申し出、藩財政が逼迫していたため、幕府や諸大名家との交際を倹約した。更に、藩では平日の音信贈答を禁止し、婚礼であっても一汁三菜におさえることなどが命じられたが、同年の11月には、上杉家の江戸における買掛金は1万2千両に達した。
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