上杉家に反逆とは? わかりやすく解説

上杉家に反逆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:20 UTC 版)

新発田重家」の記事における「上杉家に反逆」の解説

三条攻略蘆名撃退など数々武功挙げた重家は、新発田勢の活躍相応する恩賞期待していた。しかし、重家が貰えるものと思っていた恩賞のほとんどは、景勝子飼いの上田衆の手渡り亡くなった兄・長敦の功績軽んじられ、重家に対す恩賞新発田家の家督相続保障のみに終わった。重家を景勝陣営引き入れた顕元は、景勝と重家の和解奔走したものの効果がなく、重家に謝罪する意味合い自刃果てた天正9年1581年)、蘆名盛氏の後を継いだ隆と伊達輝宗は、重家が景勝に対して不満を募らせている状況見て上杉に対して反乱起こさせるべく様々な工作行った。こうして6月16日、重家は一門衆のほか、加地秀綱加地衆や、上杉景虎支持していた豪族味方引き入れ新潟津奪取同地新潟城築城独立する景勝本庄繁長色部長真(重家の義弟)に重家の抑え命じたが、年内にはそれ以上動きはなかった。一方西側から上杉攻略進めていた織田信長重臣柴田勝家は、この機に乗じて宗と連携緊密にし、ますます上杉への攻勢強めた天正10年1582年2月景勝は重家に対す最初攻勢発動したが、あっけなく撃退されてしまった。そこで景勝蘆名盛隆背後から重家を襲うよう依頼したが、反乱仕掛人である盛隆が応じる筈もなく、重臣津川城主・金上盛備に重家を援護させ、赤谷城小田切盛昭を入れるなどかえって介入強化した4月入り雪解け本格化すると、景勝は再び重家攻め着手したが、西から柴田勝家、南からの森長可滝川一益らの侵攻対処するため本庄繁長色部長真に重家対策任せこととした。6月2日本能寺の変信長死に織田軍が撤退したため、とりあえ西方南方からの脅威取り除かれたが、景勝自身織田旧領めぐって、休む間もなく信濃北条氏直対陣していたので、この時は重家との本格的な戦は無かった景勝7月北条和睦すると重家攻め力を入れたものの、兵糧不足に陥り撤兵した。 天正11年1583年)に入って状況変わらず景勝4月8月出陣した頑強な抵抗は相変わらずで、8月出陣の際には、上杉勢豪雨湿地帯のせいで大混乱に陥り、間隙突いた新発田勢に散々に打ち据えられ危うく景勝討ち取られそうになった放生戦い)。この猛反撃で、重家の勢力範囲一時的にせよ広がる結果となった一方で景勝蘆名家中の撹乱狙い直江兼続命じて富田氏実新国通などの盛隆に反抗的な重臣達を調略し、揺さぶりをかけた。 天正12年1584年8月景勝水原城奪還のため出陣した上杉勢は重家率い本隊水原城下に引き付けて戦いその間迂回していた景勝八幡砦を奪取して水原城孤立させたため、新発田方は水原城放棄して退却した八幡表の戦い)。ところが上杉方は直江兼続の陣が重家の攻勢受けて崩壊し大損害を蒙っていたため、それ以上兵を進めることが出来なくなり水原城ほどなくして新発田の手戻った。そのため新発田方の意気揚がり一時佐々成政と共に景勝挟撃目論むほどであった

※この「上杉家に反逆」の解説は、「新発田重家」の解説の一部です。
「上杉家に反逆」を含む「新発田重家」の記事については、「新発田重家」の概要を参照ください。

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