上杉家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:13 UTC 版)
代わって越後春日山から上杉景勝が入部した。領地は蒲生旧領と出羽庄内に佐渡を加えた120万石であった。景勝は戦国時代に「軍神」の異名をとった上杉謙信の養子(実は甥、生母が謙信の姉仙桃院)である。しかし入部から間もない8月18日に秀吉が死去し、次の覇権を狙って徳川家康が台頭する。これに対抗しようと豊臣家五奉行の石田三成は上杉家の家老である直江兼続に接近し、直江は景勝と慶長4年(1599年)8月に会津に帰国すると、領内の山道を開き、武具や浪人を集め、28の支城を整備するという軍備増強に出た。景勝・兼続主従は慶長5年(1600年)2月から若松城に代わる新たな城として、若松の北西およそ3キロの地点に位置する神指村に神指城の築城を開始した。しかしこの軍備増強は隣国越後の堀秀治や出羽の最上義光らにより家康に報告され、また上杉家中でも和平を唱える藤田信吉が出奔して江戸に落ち延びたため、家康は景勝に弁明を求める使者を出したが景勝は拒絶し、家康は諸大名を集めて会津征伐を開始した。 神指城築城は6月まで続けられたが、家康率いる討伐軍が江戸にまで来たため中止し、白河城の修築が急がれた。7月、下野小山で石田三成らの挙兵を知った家康は、次男の結城秀康や娘婿の蒲生秀行らを宇都宮城に牽制として残し、8月に西上を開始した。直江兼続は家康を追撃しようとしたが、上杉領の北に位置する最上義光や伊達政宗らの攻勢もあって追撃は断念した。9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成の西軍は壊滅したため、家康ら東軍の圧勝に終わった。景勝は11月に家康と和睦するために重臣の本庄繁長を上洛させて謝罪させ、自らも慶長6年(1601年)8月8日に結城秀康に伴われて伏見城において家康に謝罪した結果、8月17日に家康は上杉家の存続を許したが、会津など90万石を没収して出羽米沢30万石へ減封した。
※この「上杉家の時代」の解説は、「会津藩」の解説の一部です。
「上杉家の時代」を含む「会津藩」の記事については、「会津藩」の概要を参照ください。
- 上杉家の時代のページへのリンク