上下水道などの福祉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 07:42 UTC 版)
平治郎は三重郡富洲原町に日本全国では12番目の下水道であり、三重県下でも津市に次ぐ下水道を建設した。富洲原港の整備事業の実施。富洲原町立の火葬場と墓地の建設を1924年(大正13年)から1925年(大正14年)の間に行い、宗教施設の設置をする。富田一色地区民(6000人)が使用する下水道設備と大矢知村を水源とする上水道を建設した。 貧困層のための社会政策として三重県下で初めての公益質屋を開設した。富洲原町民の利用率は40%。約4割の40パーセント前後であった。 伊藤平治郎のエピソードとして、1913年(大正2年)の愛知県名古屋市の全国博覧会に、平治郎がタオル出品のため出席した。その会場で一枚の統計表を見た平治郎は、ひどい衝撃を受けた。それは日本国内の全国市町村のトラホーム(トラコーマ)患者数の順位で、第1位に三重県富洲原村を記述されていたからであった。普段平治郎は赤い目の人を見つけて気の毒に思っていたが、富洲原村会議員でありながら、何とうかつな申し訳なさで胸をふさがれて、1時間を立ち尽くしていた。帰りは関西本線富田駅から飯田病院で行き、飯田左三院長と石田誠副院長にトラホームの根絶を尋ねて、ただ一言『上下水道の完備です』と、また石田誠医師は『無料診療券』と回答した。平治郎は『まず下水道工事、その後上水道を造りましょう。富洲原村での下水はどぶの状態ですから、上水道を先に造ればかえって困るはずだ』。石田医師の提案の無料飲料はすぐ平治郎が実施した。平治郎は大学教授から教育されて、水道技術を学び、文献を読み、内務省で全国の上下水道の現状を調査して、工事の専門家にも話史を聞いた。全国10か所ほどの先進都市に見学に行った。三重県庁では、この不況期に、都市でも普及が早期なのに、村で水道なんて早過ぎると一笑されたが、あきらめず10年余りも内務省と三重県へ通い続けた。三重郡富洲原村は1923年(大正12年)に三重郡富洲原町に昇格して、上下水道事業に全力を注ぎ、巨額の予算が計上された。各家庭も水道貯金を積み立てて、富洲原町をあげて上下水道工事を推進した。昭和初期に下水道が完成して、上水道は父が一番良いと考えて広島県呉市の方式で完成して、1929年(昭和4年)に通水式を迎えた。平治郎は娘のともに『お父さんの生涯で大事な日だ。お前も学校を休んで式場へ行きなさい』と出席させた。富洲原小学校で行われた通水式は、小学生、役員など富洲原町民約1000人が、今村真橘富洲原町長の押されるボタンを一瞬シーンと待った。校庭には新設された噴水が、朱塗里の太鼓橋の横からサーと上がった。ドッとどよめきの後拍手が沸いた。平治郎は真っ直ぐに立ちモーニング服に涙を流した。
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