三松館の時代とは? わかりやすく解説

三松館の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 14:54 UTC 版)

市川オークラ劇場」の記事における「三松館の時代」の解説

1923年大正12年)、国鉄現在のJR東日本総武本線市川駅北口すぐの千葉街道沿い、千葉県東葛飾郡市川町大字三本松三松館として開館した。同館は、同町内(同市内最初映画常設館であり、当初営業時間午後1時-10時であった当初経営者村瀬虎雄で、村瀬はのちに同市の四カ町村合併市制実施のための委員選ばれ人物である。同館の興行系統日活および東亜キネマであり、同館に次いで1924年大正13年前後時期市川橋たもとに開館した市川館(のちの市川映画館経営中村八十吉大字二丁目現在の市川3丁目231号)が松竹キネマ作品興行し町内市内)での棲み分けが行われた。 同館の正面には、同地大字由来になり「市川名所」に数えられた「三本松」があり、1本の根から3本生えていた(1958年伐採)。同館の東隣りには1920年大正9年)に開設された「市川マーケット」(2008年解体)があり、商店栄えていた。 昭和に入ると、三松館が日活およびマキノ・プロダクション市川館松竹キネマおよび帝国キネマ演芸作品それぞれ上映するようになっていた。1929年昭和4年)には春日会館(のちの市川東宝映画劇場経営株式会社春日会館新田165番地現在の新田5丁目1番3号)が開館して松竹キネマ上映するうになると、三松館が日活および洋画外国映画)、市川館経営島崎國平)がマキノ・プロダクション作品それぞれ上映するように変わった1934年昭和9年11月3日市制敷かれ市川町市川市になり、映画界にはトーキーの時代が来た。1935年昭和10年2月20日前年11月撤回され全日本映画演劇従業員組合(のちの日本映画演劇労働組合加盟組合員1名の整理通告突如行なわれたことに対し争議起きた同年同月24日にはストライキが行なわれ、女性生理休暇要求盛り込まれていた。同争議当時の同館の経営者は、千葉羽衣館、八王子日活高崎電気館前橋電気館同一浅川得(1877年 - 没年不詳であった1940年昭和15年前後には、経営奥沢唯一郎に変わって館名も市川東宝三松館改称し東宝映画現在の東宝前身作品上映するようになっていた。1942年昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制敷かれ日本におけるすべての映画同年2月1日設立され社団法人映画配給社配給になり、すべての映画館紅系白系2系統組み入れられたが、『映画年鑑 昭和十七年版』では同館の興行系統については記述されていない奥沢唯一郎は、のちに戦後1975年昭和50年)まで、映画用ポスターなどの宣材物を扱う株式会社日本企画副社長務めた人物である。当時観客定員数は500であった。この当時は、市川館市川映画館になり経営も簱栄吉簱興行)に変わり春日会館市川松竹館になり経営臼井荘一変わっていた。

※この「三松館の時代」の解説は、「市川オークラ劇場」の解説の一部です。
「三松館の時代」を含む「市川オークラ劇場」の記事については、「市川オークラ劇場」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「三松館の時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「三松館の時代」の関連用語

三松館の時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



三松館の時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの市川オークラ劇場 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS