万燈祭の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/29 07:46 UTC 版)
繊細な細工と優雅な彩色を施した半立体の武者万燈は、竹風軒雅遊と号した粋人竹中理吉によって明治時代に完成されたといわれる。理吉は天保9年(1838年)に遠江国榛原郡植松村(現牧之原市)に生まれ、13歳の時に刈谷に奉公に来た後、一度故郷に帰ったが幕末頃に刈谷に移り住んだ。籠細工、提灯や傘、幟などへの文字入れを業とし、明治維新の際には刈谷藩の命で極めて緻密な地図を作成し人々を驚かせた。一方で華道に優れ、池坊の門下で頭角を現して大日本生花総会頭まで務めた人物であったが、それら彼の持つ技能や美的感覚を凝集し、箱万燈から現代へと続く半立体の美しい万燈に発展させたと伝えられている。理吉は1909年(明治42年)9月5日に没し、彼の功績を讃えた約270cmの石碑(碑文は高野松次郎撰、石工切田一郎刻、1910年8月建立)が寺横町の大悟寺境内にある。 太平洋戦争中は祭礼が途絶えたが、1946年(昭和21年)に再開され、昭和30年代には商店街の発展もあって夜通し大万燈が練り回るほどの隆盛を迎えた。昭和40年代には社会情勢の変化もあって祭礼の勢いが衰えたが、1975年(昭和50年)には刈谷万燈保存会が結成され、刈谷市を挙げた盛大な祭りとなった。かつては女性が万燈に触れることさえ禁じられていたが、現在では女性が大万燈を担ぐこともある。1966年(昭和41年)までは旧暦6月23日・24日に行なわれており、その後は8月1日、8月の第一日曜日とその前日、と開催日程が変化したが、現在は7月の最終土曜日とその次の日曜日に行なわれている。2004年(平成16年)には銀座がLEDを取り入れた万燈を製作し始め、近年では各町とも様々なLEDを導入し細部まで明りが灯るようになった。2006年(平成18年)には寺横町がネオン管を使用した万燈を製作した。伝統に基づきながらも万燈の改良が進められ、より細部にまで多様な表現を施すことが可能となった。
※この「万燈祭の発展」の解説は、「万燈祭り」の解説の一部です。
「万燈祭の発展」を含む「万燈祭り」の記事については、「万燈祭り」の概要を参照ください。
- 万燈祭の発展のページへのリンク