レース界への復帰と活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/20 06:13 UTC 版)
「レスリー・グラハム」の記事における「レース界への復帰と活躍」の解説
戦争が終結すると、空軍中佐として大英帝国勲章も授与されていたJ.M.ウエストは、AMC(en)の販売担当兼レーサーとしてレスリーを誘い、レースの世界に呼び戻した。AMC傘下のAJSレーシングチームに属し、1946年にキャドウェルパーク・サーキット(en)で開催された戦後初のレースに出場。ノートン350ccマシンで疾走し彼は優勝した。 1947年にはマン島セニアTTにAJS『Porcupine』で出場したが、結果は9位で終わった。翌年にはジュニアTTで7位に入ったが、セニアTTはリタイタで終えた。この年、アウトドモーロ・デ・リナス・モントレ(en)でレスリーはウエストやフランス人ライダーのGeorges Monneretとともに、18個の世界最高速度記録を更新した。 1949年に開催された第1回ロードレース世界選手権にレスリーはAJSからエントリーした。第1戦マン島レースでは、最初のラップで後続を90秒も引き離す快調ぶりを見せつけた。しかしながら、残り数マイルという所でメカニカルトラブルが発生してしまう。だがレスリーは諦めず、マシンを押してフィニッシュラインに向かい、レースを9位で終えた。レスリーは続くブレムガルテンで開催された第2戦スイスGPでは優勝、第3戦オランダGPは2位と順調にポイントを重ねた。第4戦ベルギーこそリタイアに終わったが、第5戦アルスターで再び勝利を掴み、ファーステストラップも記録した。最終戦イタリアGPでは地元の英雄でありポイントを競うジレラのネッロ・パガーニに優勝をさらわれ勝利数で並ばれたが、総得点で2点上回り、レスリーは500ccクラス最初のチャンピオンとなった。 1950年は、ジレラを駆るイタリア人ウンベルト・マセッティと、台頭著しいノートンのジェフ・デュークの後塵を拝し、500ccクラスランキング3位に終わった。この年、ダブルエントリーしていた350ccクラスでも成績は1勝・ランキング3位だった。 1951年、一向に開発が進まないAJSに不満を募らせていたレスリーは、ドメニコ・アグスタ伯爵の求めに応じイタリアのMVアグスタに乗った。当時のMVアグスタ500ccは、馬力に欠き、扱いづらい操作性から「手に負えない代物」との悪評を受けていたが、開発能力の高いレスリーの手腕によって同年500ccクラス2位を得た。ただし、更に評判が悪い350ccへの搭乗は避け、同クラスにレスリーはベロセット『MkVIII KTT 350』で出場した。彼は、スイスGPを制し年間ランキング6位を得た。なお、レスリーは125ccクラスにも出場したが、こちらは8位で終わった。 1952年のシーズン500ccクラスでは、レスリーは第1戦でポイント獲得に失敗。第2戦ではギアの操作ミスや馬力不足が祟り、アイルランド人のレグ・アームストロング後塵わずか33.4秒及ばなかった。ゴール時、アームストロングはドライブ・チェーンが外れるアクシデントに見舞われていたが、不幸にもレスリーは追いつけなかった。以後、第3・4戦でもノーポイント。第5戦ドイツGPではファーステストラップを記録したが4位。第6戦でもファーステストラップを刻むが、ダンロップタイヤにトラブルが生じノーポイントと苦戦が続いた。だが、第7戦のイタリアGPでは、モンツァに押しかけた熱狂的な観客の声援に支えられ、MVアグスタ初の優勝とファーステストラップ記録を同時に成し遂げた。続く第8戦も勝利し、彼はジレラのウンベルト・マセッティに次ぐ2位でシーズンを終えた。なお、250ccクラス(ベロセット)と125ccクラス(MVアグスタ)では、それぞれ3位と4位につけた。
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