レース界での活躍と衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 22:20 UTC 版)
「AJS (オートバイ)」の記事における「レース界での活躍と衰退」の解説
AMCでAJSブランドは本流("bread and butter")扱いをされていた。その一方でコリアー兄弟はAJSが為したレース界における数々の栄光を大切な遺産だと尊重した。こうして、AJSの名称はレース用マシンの名としても残り、革新的な機構をもたらし続けた。量産こそされなかったが、1935年のオリンピアショーでは空冷50度V4SOHCエンジンが展示された。1936年、マン島シニアTTにはスーパーチャージャー搭載のレース仕様車が投入された。これは高い馬力を誇ったが、レースでは加速に劣り、芳しい結果には繋がらなかった。 1939年、水冷495ccドライサンプ式エンジンオイル潤滑方式を採用したスーパーチャージャー搭載エンジンを積んだ、車重184kgの『V4』が満を持して投入され、当時レース界を席巻していたBMWと激しくしのぎを削り合った。同年のアルスターGPではラップ平均速度100mph越を記録した。最高速度135mphを誇った『V4』は将来の活躍を期待されたが、同年第二次世界大戦が勃発した。 戦争が終結し再びレースが開催されるようになると、AJSは前傾並列二気筒500ccエンジン搭載の『Porcupine』、OHC単気筒350ccで32bhpを発揮する『7R』を投入した。これらはAMCのマチレスブランドから発売された『G50』(『7R』と同形式を500ccまで高めたエンジンを搭載、1951年まで製造された)『G45』(500cc垂直二気筒エンジンを搭載)と兄弟車に当たる。シリンダーヘッドの冷却フィン形状から「ハリネズミ」の名がつけられた『Porcupine』は本来スーパーチャージャーを搭載する前提で設計されていたが、戦後のレースではスーパーチャージャーは禁止されてしまった。AJSに乗ってレースに出場したレスリー・グラハムは、『Porcupine』から過給機を取り外した『E90』を駆って、1949年のロードレース世界選手権第1回500ccクラス初代チャンピオンに輝いた。 1951年には開発担当のIke Hatchが、ボア×ストロークを75.5mm×78mmとした350cc『7R』の3バルブ形に当たる『7R3』を開発した。これは、多気筒エンジンを擁するイタリア車と伍するためにライダーからもたらされた要請に応じたものだった。この車種はそこそこの戦闘力を発揮したが、チャンピオンを獲得するには至らなかった。しかし1954年にチームのマネージャーだったジャック・ウィリアムズがエンジンマウント位置を変更して重心を下げ、また馬力を40bhp/7800rpmまで高める改造を施した。ファクトリースペシャルと呼べるこのマシンは1台のみが正式に製造され、もう1台はスペア部品を寄せ集めて組み上げられたものだったが、ロードレース世界選手権350ccクラス第1戦フランスGPと第2戦マン島TTを制した。しかし、年間チャンピオン獲得には至らず、また開発担当のIke Hatch が亡くなっ}たことも影響し、AMCはこの年限りでレースから撤退する方針を固めた。なお、同様に他国のメーカーと比較して競争力を発揮出来ていなかったノートンもAJSと同じくレース界から身を引いた。ただしAJSは2バルブ『7R』の量産は継続し、プライベーターへの提供は続けられた。
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