レース界へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/12 14:59 UTC 版)
「デレック・ガードナー」の記事における「レース界へ」の解説
1960年代にオートマチック変速機の設計に携わっていたガードナーの転機は1967年、フォーミュラカーの4輪駆動システムを手掛けていたファーガソン・リサーチ社に招かれたことだった。当時、フォーミュラ1ではロータスやマトラ、マクラーレンが4輪駆動の可能性を探っており、ガードナーが初めてレースに関わるきっかけとなった。 同じ頃、マトラが自社チームの他にフォードDFVエンジンを使うセミワークスチームを立ち上げ、その監督として1968年からF1参戦の機会を得たケン・ティレルは、F2時代共に戦ったジャッキー・スチュワートを再び起用、翌1969年シーズンには年間優勝を獲得した。だが、マトラは事情によりフォードとのプロジェクトを終了させざるを得なくなった。スチュワートはマトラをテストしたが、DFVエンジンのほうが優れていたため、ティレルは勝てるパッケージを作るべく自身のF1チームを立ち上げることを決意、自製マシンの設計者として、ガードナーに白羽の矢を立てた。その頃ガードナーは成績が思わしくないマトラのワークスチームで駆動系の仕事をしていたが、車体の設計となると経験が無いに等しかった。1970年当時は、ロータス黄金期を築いたモーリス・フィリップ(英国が威信を懸けたジェット旅客機コメットの設計に携わっていた)や、マーチの立ち上げに参画したロビン・ハード(超音速旅客機コンコルドの設計に関わった)など、F1マシンの設計者には航空力学のスペシャリストが名を連ねており、片や、足回りの技術屋あがりで、失うものが無かったガードナーは、この仕事を引き受けると自宅へこもってティレル1号車の設計に没頭し、300km離れたサリーのティレルのファクトリーを往復する日々を送った。
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