ルイ5世ジョゼフ (コンデ公)とは? わかりやすく解説

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ルイ5世ジョゼフ (コンデ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/22 08:13 UTC 版)

ルイ5世ジョゼフ・ド・ブルボン=コンデ
Louis V Joseph de Bourbon-Condé
コンデ公
在位 1740年 - 1818年

出生 (1736-08-09) 1736年8月9日
フランス王国パリ
死去 (1818-05-13) 1818年5月13日(81歳没)
フランス王国シャンティイ
またはパリブルボン宮殿
埋葬 フランス王国サン=ドニ大聖堂
配偶者 シャルロット・ド・ロアン
マリーア・カテリーナ・ブリニョーレ・サーレ
子女 マリー
ルイ6世アンリ
ルイーズ・アデライード
家名 ブルボン=コンデ家
父親 コンデ公ルイ4世アンリ
母親 カロリーネ・フォン・ヘッセン=ローテンブルク
サイン
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ルイ5世ジョゼフ・ド・ブルボン=コンデフランス語: Louis V Joseph de Bourbon-Condé, 1736年8月9日 - 1818年5月13日)は、フランスの貴族。コンデ公

経歴

ルイ4世アンリとヘッセン=ローテンブルク辺境伯エルンスト2世レオポルトの娘カロリーヌの間に一人息子として生まれる。

1743年にフランス・フリーメイソンのグランドマスターになった[1]

軍人として七年戦争に参加し、自由主義貴族となる。1789年フランス革命が起こると、息子のブルボン公ルイ・アンリ(後のコンデ公ルイ6世アンリ)、同族のコンティ公ルイ・フランソワ2世と共にドイツのコブレンツ亡命したが、1804年に孫のアンギャン公ルイ・アントワーヌがフランス軍に処刑されている。

諸外国を転々とし、1814年王政復古の頃にイギリスから帰国した。1818年シャンティイで没した。

1753年スービーズ公シャルル・ド・ロアンの娘シャルロットと結婚、3人の子を儲けた。

  • マリー(1755年 - 1759年)
  • ルイ6世アンリ(1756年 - 1820年)
  • ルイーズ・アデライード英語版(1757年 - 1824年)

1798年、長年の愛人だったモナコ公未亡人マリーア・カテリーナ・ブリニョーレ・サーレと亡命先のロンドンで再婚している。

脚注

  1. ^ 竹下節子 2015, p. 65.

参考文献

先代
ルイ4世アンリ
コンデ公
1740年 - 1818年
次代
ルイ6世アンリ
先代
ルイ2世アンリ
アンギャン公
1740年 - 1818年
次代
ルイ4世アンリ



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