ユダヤ書籍の焚書と「皇帝奴隷」
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「反ユダヤ主義」の記事における「ユダヤ書籍の焚書と「皇帝奴隷」」の解説
1234年、フランスのモンペリエとパリで、マイモニデスを異端とするユダヤ教ラビのシュロモ・ベン・アブラハムの要請によってマイモニデスの著作が焚書された。 1236年、第6回十字軍でフランス、イギリス、スペインでユダヤ人虐殺が起こった。この年、ドイツで儀式殺人事件が数件発生した。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(在位:1220年 - 1250年)は、改宗ユダヤ人による諮問委員会に儀式殺人の究明を命じると、ユダヤ教で人間の血を儀式で使用する根拠はどこにもなく、それどころか、ユダヤ教では人間の血をなにかに使用することは禁止されているとの報告がなされた。 1236年7月、フリードリヒ2世は金印勅書でユダヤ人を「皇帝奴隷」として血の中傷から守った。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、ドイツのユダヤ人が皇帝の国庫(カイザリッへ・カンマー)に属すると宣言した最初の皇帝となった。 1240年、フランス全土でタルムードが押収され焚書された。改宗ユダヤ人のニコラ・ドナンがタルムードを背徳的であると告発し、教皇の要請でフランスの聖ルイ王(ルイ9世)がタルムードについての公開論争が繰り広げらた結果であった。 1246年、ベジエ公会議でユダヤ人医師にかかることが禁止された。一説では、シャルル禿頭王、ユーグ・カペー、シャルルマーニュ皇帝もユダヤ人医師によって殺害されたといわれた。一方で、ユダヤ人医師は人気を博しており、教皇のアレクサンドル3世や16世紀の教皇パウルス3世まで、伝統的にキリスト教指導者の主治医でもあった。また、ポワティエ伯アルフォンスもベジエ公会議を支持する一方で、ユダヤ人医師にかかった。 1247年、教皇インノケンティウス4世がユダヤ人に過越祭で子供の心臓を分け合っているという誤った告発がなされているという教書を公布し、1252年に教皇は取り調べに拷問を取り入れた。 1248年、ドミニコ会士アルベルトゥス・マグヌスはタルムード異端裁判での判決は正当とし、翌年ケルンの説教で普遍博士マグヌスはタルムードを弾劾した。 1255年、イングランドのリンカンにて儀式殺人。北フランスで異端審問。 1261年、神学者トマス・アクィナスは、ユダヤ人はイエス・キリストがメシアであることを拒否するために災難にあうのであるとし、ユダヤ人を永遠なる隷属に置くことは法に照らして正しいとした。。また、国王はユダヤ人を所有物(財産)として保有でき、また諸侯はユダヤ人の財産を国家に帰属するものとみなすことができる、ただしユダヤ人の生活に必要な物資を奪ってはならない、また、ユダヤの習慣になかったような奉仕を強要してはならないと論じた 1267年、教皇クレメンス4世は勅書で、キリスト教へ改宗した者をユダヤ教徒へ回帰させようとするユダヤ人、タルムード所持者にも異端審問官の手が及ぶようになった。それまでは異端審問所の対象はキリスト教徒に限定されていた。同年、ウィーン公会議やブレスラウ公会議で、ユダヤ人が密かに毒を盛リかねないという恐れから、ユダヤ人の店で食料を買うことがキリスト教徒に禁止された。 1268年、ヴュルツブルクの吟遊詩人コンラート(コンラート=フォン=ビュルツブルク)は「卑怯にして、聞く耳を持たないユダヤ人に災いあれ。彼らは邪な人々」で、タルムードによって愚かになったと歌い、またジークフリート・ヘルプリングはタルムードは「偽りにしておぞましき書」で焚書にできれば申し分ないと歌った。 イングランドのローマ法学者ヘンリー・デ・ブラクトンは『イングランドの法と慣習法』で「ユダヤ人はみずから何も所有することはできない。ユダヤ人が手に入れるものすべてが王の所有物となる」とした。 1273年にローマ教皇は儀式殺人による告発を戒める教書を公布した。 1274年-1276年のシュヴァーベン法書では、キリスト教徒とユダヤ人との性交は火あぶりの刑によって処罰するとされ、ユダヤ人は「永遠なる隷属」にあると書かれた。
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