モダニズム以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 05:25 UTC 版)
詳細は「ポストモダン建築」を参照 モダニズム建築の理念が普及し、白い箱のような装飾の無い建物や高層ビルの並ぶ街並みが生れたが、こうした都市・建築は合理性・機能性を重視するあまり、味気なくなってしまったのではないか、という批判が起こり、都市の魅力や景観、歴史、風土の破壊者とされるようになってしまった。 1960年代後半頃よりモダニズム運動は退潮に向かい、1972年にはロバート・ヴェンチューリらが著書『ラスベガス』(Learning from Las Vegas)を出版し、モダニズムの理想は一般の人々のためには高尚過ぎると批判、むしろ猥雑で張りぼてのようなラスベガスや全米のロードサイドなどの日常的風景などを観察してその建築的シンボルを学ぶべきだと提唱、論議を呼んだ。 日本では坂口安吾が『日本文化私観』において伝統建築も批判したうえでブルーノ・タウトを批判、工場のような「俗悪」な建築の美を主張していたほか、1970年の大阪万博では縄文美術に影響を受けた岡本太郎が太陽の塔を作った。 「近代建築の失敗」の象徴とされたのが、ミズーリ州セントルイスのプルーイット・アイゴー団地(ミノル・ヤマサキ設計、1954年)であった。これはスラムを一掃した後の23haの敷地に建設された高層の集合住宅団地であるが、低予算で建設されたこと、低所得者層が主に住んだことなどで次第にスラムと化し、犯罪の巣窟となってしまった。荒廃のため1972年に取壊されたが、その爆破シーンはモダニズムの終焉を象徴するものと受け止められた。 モダニズムを乗り越えようとするポスト・モダニズム(ポストモダン)が提唱され、モダニズム建築によって否定された装飾や象徴性の復権などが唱えられた(参考:チャールズ・ジェンクス『ポスト・モダニズムの建築言語』1978年)。かつてモダニズム建築の旗手であったフィリップ・ジョンソンのAT&Tビル(古代ギリシアの神殿建築に由来するペディメント=三角破風を持つ)や、磯崎新のつくばセンタービル(マニエリスムなどの歴史的な要素を引用)、丹下健三の東京都庁舎(ゴシック教会堂の形態を思わせる)も、ポストモダンの作例とされる。 ただ、ポストモダンの動きには建築構造の工夫や素材の研究など、建築や空間を改善・改革する実質的・実験的な要素がなく、一時の流行の感も強い。 ポストモダン建築の流行が去ると、新素材の利用やコンピュータを使った構造計算による大胆なフォルムが可能になることでモダニズムの見直しも進み、ネオモダニズム建築が一時代を築いた。代表的な人物にはフランク・ゲーリー、ザハ・ハディド、レム・コールハース、ノーマン・フォスターなどがいる。一方でこれも2008年のリーマン・ショックの大打撃を受けており、次の建築様式への模索は続いている。
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