ミンスクII後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 06:02 UTC 版)
「デバルツェボの戦い」の記事における「ミンスクII後」の解説
2015年2月12日に新たな停戦協定(ミンスクII)が締結されたにも関わらず、デバルツェボ周辺での戦闘は激しさを増していた。分離派勢力は停戦が有効になる2015年2月15日午前0時0分(EET)の前に政府軍を追放しようとデバルツェボ本土への攻勢を試みた。 2月13日、重砲の集中砲火が都市を襲ったと報じられ、戦略上重要なアルテーミウシク・ハイウェイも激しい砲撃を受けていた。政府軍はロフビネ村の奪還を試みたが、分離派の武装勢力の待ち伏せにあった。ウクライナ兵の1人は村の状況を「ドネツクとルハーンシク空港の時よりもさらに酷い敵対行為」と説明した。少なくともウクライナ兵96人が負傷した一方で、死者数はウクライナ軍が自軍の戦没者を収容する前に退却を余儀なくされたため不明となっていた。DPRの武装勢力がウクライナ軍の抵抗を排除しようとしたことから、アルテーミウシク・ハイウェイ沿いで2月14日まで戦闘が継続した。ドネツク地域の警察署長Vyacheslav Abroskinは、激しい砲撃は「デバルツェボを破壊している」と語った。アメリカ合衆国国務省のジェン・サキ報道官はロシア連邦軍が「デバルツェボ周辺に大量の火砲と多連装ロケットシステムを配備していた」とし、都市への砲撃についての責任はロシアにあると述べた。ニューヨークタイムズはアルテーミウシク・ハイウェイは2月12日までに完全に通行不能になったと報じた。また、同紙は道路には地雷が敷設されていると述べている 。ウクライナのペトロ・ポロシェンコ大統領は軍に2月15日午前0時0分(EET)に有効になる停戦を遵守するよう命じ、反政府勢力の指揮官も同様に命じた。殆どの戦闘地域で戦闘が停止されたものの、デバルツェボでは継続していた。DPRリーダーのアレクサンドル・ザハルチェンコは、ミンスクIIではデバルツェボに言及されていないため協定は同地域には適用されないと述べた。デバルツェボの北にあるルハーンシク村の検問所に駐留していたウクライナ兵士の1人は「停戦はなされていない」と語った。 2月15日、ウクライナ軍陣地へ砲撃が行われ、分離派勢力が西部と東部から都市への攻撃を複数回行い、Chornukhyne村近郊の政府の拠点を襲撃した 。それでも当該地域における砲撃は停戦開始前の数日間に比べそれほど激しいものではなかった。ミンスクIIの実施を監視する欧州安保協力機構(OSCE)の監視員は分離派当局からデバルツェボへの進入を拒否された。 2月16日、戦闘は更に過激化し、「ひっきりなしの爆発」が都市を襲った。その日の早いうちに、デバルツェボの警察署は分離派の砲撃で破壊された。Kryvbas大隊のYuriy Sinkovskiy副大隊長はデバルツェボのウクライナ兵は完全または部分的に包囲されており、ウクライナ軍参謀本部との通信が途絶していると語った。兵士達は極寒の中生活しており、食料や弾薬は殆ど持っていなかった。Sinkovskiyはこの情報を開示することで軍法会議にかけられる危険があるが、自身は単にデバルツェボに閉じ込められている人間を救いたいだけだと語った。彼は軍は撤退かもし命が助かるならば降伏さえもすべきだと語った。DPR指揮官のEduard Basurinはウクライナ軍が武器を置きデバルツェボを離れられるようにする回廊を設けると語った。軍のVladislav Seleznyov報道官は発言は容認できず、ミンスク協定に基づきデバルツェボはウクライナ領土であると述べた。ロイターはデバルツェボでの停戦は「死産」だったと表現した。ドンバス大隊のメンバーの1人は市内のウクライナ兵は悲惨な状況であり、イロヴァイスクの戦いでの「ケトル」と似ているが、はるかに大規模であると語った。 2月17日、分離派勢力がデバルツェボ市内へ侵攻したことで初めて市中の通りで戦闘が起きた。分離派当局は都市の鉄道駅や東部周辺も占領したと述べたが、NSDCの広報担当者は否定し、戦闘はデバルツェボ全体で続いていると語った。後に分離派は都市の大半を占領しており「掃討作戦」を行っているとし、少なくとも300人のウクライナ兵を捕虜にしていると語った。ウクライナ国防省は都市の一部が「無法者」の手に落ち、一部兵士は捕虜になったと確認したとの声明を発表した 。デバルツェボのすぐ西にあるコムラ村のウクライナ兵は、陣地を維持できるのは最大でも12時間程度であり、増援が無ければ分離派に制圧され皆殺しにされるかもしれないと記者に伝えた。同時に、ドンバスでのウクライナの軍事作戦の広報担当者はLohvynoveとアルテーミウシク・ハイウェイはウクライナの支配下に戻ったと述べた。
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