ミステリー小説観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 01:05 UTC 版)
権田のミステリー小説観は、フランスのボワロー=ナルスジャックによる、推理小説を「謎と恐怖の両義性の文学」とする考え方を取り入れているが、ミステリーは基本的には文学というよりはエンターテインメントの要素の強い小説ジャンルであるとして「文学」というより「小説」と修正すべきであるとしている。一方、基本的にエンターテインメントではあるが、その中には純文学といえるような文学性の高い作品もあり、また、現代推理小説の大きな傾向として謎と恐怖の特殊な面白さと同時に現実感豊かな小説的な魅力を重視するようになっているという立場に立っている。これは英国のジュリアン・シモンズが、「現代推理小説は、探偵小説から犯罪小説に変貌し、作品の社会性や現実性、犯罪の動機などを重視するようになっている」と指摘していることと対応しているといえよう。 1960年に「感傷の効用―レイモンド・チャンドラー論」で推理文壇にデビューした後、推理小説専門誌『宝石』上に戦後の推理作家論を立て続けに発表し、1962年の11月からは当時すでに探偵小説評論・研究の第一人者とされて来た中島河太郎と二人でゲストを挟んで鼎談方式で新刊を取り上げるようになった。 そして1957年の松本清張の『点と線』、『眼の壁』などのいわゆる社会派ミステリーの登場とともにミステリーブームが起こり、有力出版社が文庫にミステリーを多数収録するようになったほか新聞・雑誌などのミステリー書評欄も強化されたことを背景に、それまで『宝石』などミステリー専門誌に限られていた評論・解説・時評などの発表の場を拡大して行くこととなる。権田はこうした時評、書評に加え、数多くの文庫の解説を執筆しているが、業績の中心は作家論であり、『日本探偵作家論』と『謎と恐怖の楽園で ミステリー批評55年』は、中国語版が私家版として刊行され中国のマニアにも知られている。 また、権田はその評論活動において、以下に挙げたような推理文壇における主要な論争に参加し、ミステリー小説に対する考え方を表明している。 結城昌治、佐野洋、都筑道夫との間の「名探偵論争」に関する所論 「名探偵はどこに行ったか」、「魅力ある犯罪者の肖像を」、「推理小説はどこへ行く」、「ヒラリー・ウオーの『名探偵』論について」(いずれも『現代推理小説論』に所収) 檜山良昭の『スターリン暗殺計画』をめぐる佐野洋、檜山良昭との論争での所論 「歴史推理の問題点」、「論争『スターリン暗殺計画』-檜山良昭氏に答える」、「歴史推理における事実と虚構-佐野洋氏への反論」(同) 笠井潔の所論とそれに対する疑問と反論 「第一次世界大戦での大量死と本格推理小説との関係についての疑問」、「最後にもう一度、笠井潔氏に」(いずれも『謎と恐怖の楽園で』所収)
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